当尾森八幡宮毘沙門と不動

 京都府加茂町当尾は石仏の宝庫です。「わらい仏」をはじめ浄瑠璃寺・岩船寺近くにある石仏たちは心和ませてくれます。「石仏巡り」がしっかりコースになっている地域は珍しいのではないかと思います。
 当尾石仏群の一番北、森の集落に八幡宮があり、鎌倉末期の毘沙門さんと不動さんの線刻磨崖仏があるというので、ぜひお会いしたいものだと行ってきました。2007・6・2南田原・福住の仏さんたちを巡りその帰りに立ち寄りました。
 岩船寺から西畑口を通って勝風口、辻を通る府道大柳生木津線を北へ走り、下手口から東へ、森の集落を目ざしました。
 八幡宮はすぐに見つかりました。そして毘沙門・不動線刻磨崖仏は本殿の右手におられました。

(1)毘沙門天(武内之本地)

 この毘沙門天がなぜ八幡宮にあるのか、武内之本地とは何のことか、これを知るために神仏習合説について知る必要があります。(下記参照)
 「武内之本地」の武内というのは、武内宿禰(たけのうちのすくね)のことです。昔の1円札は武内宿禰だったそうです。伝説上の人物で記紀によりますと大和朝廷初期244年にわたって応神・仁徳などの諸朝に仕え、蝦夷地の視察、新羅との戦いなどで活躍したと伝えられています。蘇我・葛城・巨勢・平群などの諸氏の祖先とされています。「史実としては信じがたい」というのが定説です。
 神仏習合説…仏教信仰と固有の神祇信仰とを融合するために唱えられた教説。奈良時代に始まる神宮寺などはそのあらわれで、平安時代には、仏菩薩が日本では、かりに神の姿となって現れる本地垂迹説が起こり、阿弥陀如来の垂迹が八幡神、大日如来の垂迹が伊勢大神と考えられ、ついにはどの神社にもその本地仏をあてるようになった。鎌倉時代にはこのような説の理論化が行われて、両部神道といわれる神道の諸派を生む一方、神道の側から逆に本地が神、垂迹が仏という反本地垂迹思想が起こった。江戸時代、国学の興隆につれ、仏教的要素を神道から除き、神道の優位性を強調、明治維新には廃仏毀釈にまで及んだ。(角川日本史事典より)
 毘沙門像は甲冑で武装し、右手に矛、左手に宝塔を捧げ、口髭を生やして目を大きく見開いた姿で立っておられます。大変恰幅がよく貫禄十分と行ったところです。成立年代については後に紹介する不動明王のところで見てみましょう。
 この像の横に神社が作られた注意書きの掲示物がありました。曰く「神社に許可なく拓本をとってはいけない」下の不動明王像と比べ色が黒く肉眼では判別できにくくなっています。相当量の墨を含んでいると思われます。こういうのは洗い流すことができないのでしょうか。しかし、拓本がほしくなる気持ちは理解できます。この拓本を軸にしたらさぞかし立派なものができることでしょう。大きさも手頃です。

(2)不動明王(松童之本地)

 火焔を背負い片目を半眼にした天地眼で、牙をむき出しにした忿怒相。右側に文字が刻まれており、正中3年(1326)に彫られたことが分かります。上記の毘沙門天像も同じ時の造像と思われます。これには拓本を採った形跡がありません。
 松童というのがよく分かりません。日本史事典、広辞苑にも出てきません。インターネットで検索してみましたが、八幡宮の随神らしいこと、全国各地に祀られていること、松尾社との関係を書くものを見つけましたが…?です。
 この森八幡宮は聖武天皇が恭仁京を造営した時に勧請されたそうです。
 そして興味深い話しとして、この八幡宮を中心に「ずんどぼう」と呼ばれる力持ちの男の話が残っているようです。
「ある日、ずんどぼうが牛を引いて奈良へ行ったところ、橋の上で大名行列と出会った。ずんどぼうは牛の前足と後足を両手でもって、牛を持ち上げ欄干から外へ付きだして、大名行列を通した」「力士と相撲をとるのに青だけを引き抜いて褌代わりにしたところ、力士が逃げ出した」などの話が伝わり、近くには「ずんどぼうの杖」とか「ずんどぼうの石碑」「ずんどぼうの屋敷跡」などの言い伝えが残っているそうです。
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