円空さんを訪ねる旅(57)
金山町の円空仏
(岐阜県下呂市金山町)
金山町内にある公民館で(1)熊野権現社の6体、(2)愛宕社の1体、(3)個人蔵の4体を拝観させていただきました。愛宕社の一体をのぞいては元禄期に飛騨地方に来訪した時期の仏です。まず、三尊形式をとっていると思われる熊野権現社の円空仏から見ていくことにします。
(1)熊野権現社の円空仏
(下呂市金山町福来)
稲荷三尊と思われる神像 | 白山三尊 |
熊野権現社のある山を登りました。徒歩15分ということだったのですが、なかなかきつい山道で、細いし倒木はあるし、勾配がきつくふくらはぎにこたえました。休憩なしで登り続け、やっよ鳥居が見える場所につきました。幸いそこが、目的地の熊野権現社で「ああ、よかった」と思いました。
熊野権現社に稲荷神、白山神が合祀されているのに、主神である熊野権現はどこへいったのだろうと思いました。もともとあった熊野権現が何かの事情でおられなくなり、後に他所にあった円空の稲荷神と白山神が祀られたのだろうかと考えたのですが、よく分かりません。
ちなみに円空作の熊野神は11体確認されているそうで、高山市丹生川(丹生川神社に4体)、飛騨市、下呂市など飛騨に集中しており、他所では関市池尻に一体のみのようです。背銘には「熊野三所権現」「熊野大権現」「熊野大神」などと書かれており、お姿は烏帽子あり、観音あり、如来あり、菩薩あり、巾子冠ありで、一定ではないようです。
■稲荷三尊像
36.5cm | 52.8cm | 36.0cm |
二体の狐顔の背銘には「稲荷大明神」と書いてあります。中尊と思われる神官姿の背銘には「秋荷大明神」とあり、これは「稲」と「秋」を間違ったと思われます。三尊形式の稲荷神をどこかで見たことがあると「飛騨の円空展」(2013)を調べましたら、ありました。錦山神社(高山城址の北)の稲荷三神座像(男神形)と稲荷三尊座像(獣頭形)二種類を見たことがあったのです。
脇侍の二体を背中合わせにすると、下のようにもともと一木であったことが分かります。
■白山三尊
16.0cm | 29.4cm | 23.5cm |
円空が属したあるいは影響を受けた宗教集団が何でどこなのかについては一筋縄ではいかない。ただ、修験道との関係は深いと思われる。中でも白山修験は、美並の庇護者が西神頭彦大夫であったことからも大いに推測される。泰澄につながる家系を持つ西小頭(西神頭)家から学ぶことも多かったであろう円空は白山神を多数残している。この三体も右二体の背銘には白山妙理大権現とあり、左は白山十禅師とある。白山妙理大権現は十一面観音の垂迹した姿である。十禅師について、広辞苑を引いたら「山王七社の一つ。地蔵菩薩の垂迹で、法華経守護の神」とあった。
背面左二体には明瞭に蜂が巣を張ったような跡が見える。そういえば、右の肩付近にも見える。自由に蜂が出入りするような場所に長い期間おられたのであろう。
(2)愛宕社地蔵菩薩座像
(金山町下原・44.2cm)
金山町の愛宕社がどこにあるのか分からないのだが、愛宕神社と地蔵菩薩は関係がある。
京都の愛宕神社は、役小角と泰澄によって朝日峯に神廟が建てられたのが始まりというから修験の山そのものである。奈良時代末和気清麻呂によって愛宕大権現を祀る白雲寺が建立される。その後明治の廃仏毀釈まで白雲寺は存在し続けたが、現在はない。この愛宕大権現の本地仏が勝軍地蔵である。勝軍地蔵の歴史は鎌倉時代以降だという。足利尊氏が深く信仰したらしい。京都の愛宕神社は本能寺を焼き討ちする前に明智光秀が戦勝祈願に訪れ、連歌の会を催し「時は今 あめが下しる 五月哉」と歌ったという話が残っているが、これも勝軍地蔵が本尊であることと関係するのだろうか。
穏やかなお顔立ちで、宝珠を持ったお姿である。
このお地蔵様で注目すべきことは、その形式と背銘にあります。こういう長い裳懸座を有し、後頭部に梵字(イ・文首記号)が書かれる円空仏は寛文後期から延宝初期のものなのです。そうなると、円空が飛騨の国南部に足を伸ばしていたのは、早い時期からではないかと言うことが考えられるのです。
この「金山町円空仏に会いに行く旅」を地元でお世話下さった杉山宣仁さんは、下呂市金山観光協会理事で、円空学会にも所属されておられる。杉山さんは私のこのホームページをご覧になって下さっているようで、講師の小島先生に「今日はかばのしっぽさんは来ておられますか」とお尋ねになって下さっていたとのことで、会って早々に名刺をいただいた。
杉山さんはupした「金山町の円空仏」もご覧にただいたようで、早速以下のようなメールをいただきました。ご了解を得て掲載させていただきます。
こんばんわ、10月にお越しいただいた下呂市金山町の杉山です。私の準備した円空さんを拝観いただきありがとうございました。ブログを読ませていただきました、大変勉強になりました。その中で愛宕社について触れて見えましたが、愛宕神社は次の位置にあります。レストラン飛山での食事の後、41号を北へ向かいトンネルを出たあと橋を渡る手前の工事中のトンネルの真上の小山の山頂にあります。小山は保木山(通称”愛宕山”)といい、地蔵菩薩はここに祀られていましたが昭和40年代に盗難を恐れ自治会長の管理となりました。また、あいさつの中で本来言うべきでしたが福来の道は北(高山方面)へ向かう当時の重要な街道でありました。円空さんは下原地区には11体ですが金山町全体では45体が確認されていますので機会がありましたらぜひお越しください。またお会いできる日を楽しみにしております、ありがとうございました。 それからもう一つ、保井戸の薬師堂から41号で3キロ北の「深谷」という谷の国道から2〜3キロ奥に、「円空岩」という大きな岩があり、その下で円空さまが何日も滞在し造像したところがあります。「下呂市 円空岩 深谷」で検索されれば出てくると思います。この次にお越しの節はぜひお立ち寄りください。ブログの更新をいつも楽しみにしています。よろしくおねがいします。 愛宕神社については、「保木山城」で検索されるとその様子も見ることができます。 地図では「下原小学校」の裏山にあたります、また地蔵菩薩は地区の自治会長の 管理となっています。 |
(3)金山町個人蔵の円空仏
個人蔵の4体の円空さんを見せていただいた。もともと一軒のお宅が所蔵されていたらしい。右の小さい阿弥陀如来は、婚姻の時にそのお宅から移座されたらしい。その由来が厨子の背面にあり、底部、厨子の背面にも書かれていた。円空が作ったのは元禄4年で、天保6年に婚儀が行われたという。
少し大きめの阿弥陀様は彩色され金色になられたようだ。えびすさんが左手に持っておられるのは鯛らしい。宇賀神はひげを生やし体は蛇である。
一軒のお宅で何を彫り残すか、おそらくそのお宅のご希望もあろうし、円空の願いもあろう。その地域が抱える問題も反映することだと思う。阿弥陀如来は来世極楽浄土を願うものであろう。えびす神は商売繁盛、海上、漁業の神様。宇賀神は穀物の神。転じて福の神。一族の反映と現世来世の幸福を願って円空が彫ったのであろう。4体も彫り残すと言うことは相当おせわになったのであろうか。
宇賀神(13.7cm) | えびす神(8.7cm) | 阿弥陀如来(8.1cm) | 阿弥陀如来(5.2cm) |
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