円空さんを訪ねる旅(78)
愛知県長久手某寺の薬師如来座像
(36cm)
ガンダーラの会の現地学習会に参加しました。
名古屋駅から地下鉄東山線終点の藤が丘へ。そこから名鉄バスで長久手へ。小牧長久手の戦いのあの長久手です。その某寺にこの薬師如来がおられました。ご覧の通り優しい穏やかな表情をした薬師如来座像です。仏像は立体ですが、円空の場合木取りが独特で、この仏像の場合も真正面及び斜めから拝見すると何の違和感もないのですが、真横から見ますと下右側の如く顔が前に出ていて手や足がほぼ同じぐらいしか前に出ていません。
これは顔の表現にも発揮されています。鼻を高くするのは当然ですが、円空の神や仏は鼻高々と言う像はなく、横から見るとわずかに隆起しているぐらいに彫っています。眉も口も頤もほんの少し引っ込めてある程度です。ではなぜそんな彫りにもかかわらず正面から見ると立体的な顔に見えるのでしょうか。おそらく目の下あたりから口とアゴにかけて楕円形に頬を彫ってあるからだと思われます。そして口は上唇を台形に、下唇はやや大きめにし境目を深めに彫って立体感を強調しています。口角を深めに彫ると微笑しているように見えます。境目をやや深めに彫ることで違和感なく見えるのだと思います。
ここからは、小島梯次先生のレクチャーを基に書いていくことにします。
円空仏ではないかと鑑定されたのは、円空ブームが起こった時代以後(昭和30〜40年代)のようで、「円空うき世咄」の著者で円空学会理事長であった谷口順三氏であったと住職がおっしゃっていました。
この像は寺では「大黒様」と伝わってきたそうです。温顔で優しい表情か「寺の奥様」を大黒と言うところからそう呼ばれてきたのではないかということでした。大きめの薬壺を持っておられますから、間違いなく薬師如来でしょう。この寺の開山は寛文年間で、現住職は10代目とか。寛文と言えば円空が活躍しはじめた時代と重なります。韋駄天像が祀ってある横に真っ黒な状態で発見されたそうです。開山は寛文年間とのことですが、それ以前の歴史もあるお寺のようです。
法界定印の手に六角形の薬壺を持つという円空独特の印相です。この法界定印は釈迦如来か退蔵界大日如来の印相です。立像でも座像でも薬師如来は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例です。また薬壺を持たない像も多いようです。
この法界印相の右手左手の上下が逆であることも円空仏の特徴です。円空は右手が下、左手が上ですが、通常はその逆にします。インドなどでは右手で食事を取り、左手で不浄なものを取り扱うので右手が聖なる手で上になるのだそうです。右利きの常識にすぎませんが。何か円空に信念あってのことか、単なる間違いか。
蓮座、磐座の二重台座に座っておられます。この磐座は後世切り取られたようで短くなっています。普段は、厨子に入って大切に保管されているのですが、江戸時代にもそういうことがあって切られたのかも知れません。
顔の側面の処理が少し気になります。肩まで長く髪を伸ばしたようにも見えますし、頭巾か何かを被っているようにも見えます。一応耳の辺りで線刻されていますから、そこが髪との境なのでしょうが、耳朶(みみたぶ)なのでしょうか。円空は長大耳朶を意識的に彫っていた時期もありますから、興味あるところではあります。
何を使って彫っているのかを推定するのにこの像はもってこいだなと思いました。平のみ、印刀(小刀)、丸刀二種(大小)最低これだけいると思いました。いずれもよく切れる刃物で彫っています。
背面、底部何れも文字は見られません。背面に5本の斜め線が彫られています。初期の像に斜め線が見られるのですが、これは初期像かというと、そうではないようです。
時代を推定する方法としては、最高の価値があるのが、円空直筆の年代を表す文字が彫り込まれていたり、書かれていること。棟札などの文字資料が残されていること。寺に記録が残されていること。これが書かれている事は珍しく、色々他の方法で推定せざるを得ないことになります。円空の場合、推定の方法として用いられているのは…。
@背面に書かれている梵字、種字が時代によって変遷し違っていることからの推定。
A仏像の様式に特徴のあるものがあること。
などです。
この薬師如来は、背銘がありません。推定しずらいと言えます。しかし様式的には延宝3,4年ではないかと、小島先生は考えておられるようでした。
そして、こんな推定をさらに加えておられました。まず、この寺の近くにある円空仏の中で年代がはっきりしているものを見つけ、近くの円空仏がある場所を地図落とししていくと、円空の巡錫地が線で結ばれていき、そこから年代を類推するという方法です。
私はこの辺りの地理に疎いので分かりませんが、こういうことでした。
まず、延宝4年に名古屋市守山区龍泉寺で馬頭観音三尊と千体仏を彫り、そこから5km離れた尾張旭市の庄中観音堂へ向かい、さらに5km離れた長久手の地でこの像を含む2体を彫り、日進市岩崎の山中で不動三尊を彫る巡錫の旅をしたのではないかということでした。
日本の石仏めぐり | 円空さんを訪ねる旅 | 木喰さんを訪ねる旅 | HPへ戻る |