円空さんを訪ねる旅(79)

岐阜市美江寺
(岐阜市美江寺町)

 美江寺から金華山(岐阜城)が見えます。ご住職のお話に斉藤道三の名が出てきました。織田信長の文書もあるそうです。美江寺は、古刹で岐阜の南西に位置し裏 鬼門を護る役目をしてきたそうです。明治の廃仏毀釈以前は十数ケ寺の塔頭を擁する大寺だったそうです。第二次世界大戦の空襲で四割近くの仏像を無くされたとか。
 この寺に奈良時代の脱活乾漆造の十一面観音立像があります。奈良、京都、大阪以外では極めて珍しい時代が限定される作り方の仏像です。元来美江寺は岐阜市内にあった寺ではなく瑞穂市にあったそうです。水害から人々を守るという意味がこの寺の名前にはこめられているようです。「美」が寺の名前に使われること自体が珍しいという住職の話、興味深くうかがいました。
 この寺へは2回目です。昨年ここで円空写真展が行われたときに行かせてもらいました。その時ここの円空仏は岐阜県博物館で開催されていた『東海地方の円空仏〜その造形と足跡をたどる〜』に出品されていましたので、私はこの寺で円空仏を拝観するのは初めてです。

(1)観音菩薩像
(37cm)

 

(1)長い裳懸座について

 この観音菩薩像、ご覧の通り裳懸座が異常に長い。この様式で円空が作像する時期は寛文後期です。岐阜羽島の長間観音堂の今は客仏扱いになっている薬師如来(阿弥陀如来?)や本尊薬師如来の脇侍日光月光は長い裳懸座です。しかしこの美江寺の裳懸座はより徹底した長さです。彫りそのものは大変丁寧な彫りで、それも円空の寛文の作であることを表しています。私は岐阜県博物館で拝観していたはずだったのですが、すっかり忘れていて、もっと大きかったと思いこんでいました。37Cmですが、観音様自体はその4分の1ですから、印象から言うと寺にある円空仏と言うより円空がお世話になったお宅に彫り残した円空仏に近い大きさだなと思いました。この寺の近くの勝林寺にも2体裳懸座の長い円空さんがあるそうですが私はまだ見たことがありません。機会があればと思います。
 「円空仏入門」(小島梯次著2014年)に美江寺のこの像について、そして長い裳懸座について書かれているところがありますので、見てみます。第三章円空仏開眼(寛文9年・三十八歳〜延宝7年・48歳)「寛文後期の円空仏」『雁曾礼白山神社の円空仏』の小見出しのところで書かれています。
 ちなみに雁曾礼白山神社には十一面観音、阿弥陀、観音の白山本地仏が祀られています。この三尊それまでの円空仏と次の3点で違いが見られ注目されています。
1,臼座の上に裳懸座があり、その上に台座より短い仏像が彫られている。(長い裳懸座)
2,棟札が残されていて、「寛文9年己酉拾月十八日」(1669)の日付がある。(制作日時が明確)
3,背面梵字が東北、北海道では『六種種字』及び数種の種字であったものが、その後使われる大日如来応身真言や金剛界五仏種字と言ったものが使われている。(背面種字の成長)
 ここから引用です。【平成25年岐阜市美江寺町・美江寺で裳懸座が極端に長い観音像の新発見があった。像高より長い裳懸座を持つ円空像は本像(美江寺)を含めて11体ある(岐阜市4体、大垣市1体、羽島市4体、関市1体、稲沢市1体)。裳懸座が像高よりやや短い円空像は、美濃地方を中心に、岐阜県、愛知県に数十体ある。裳懸座のある像は寛文後期に位置づけられ、その行き着いた頂点が、極端に裳懸座の長い像だと思われる】(P,32)
 小島先生は、この変化の要因として法隆寺での学習を想定しておられる。法隆寺で梵字を学び、金堂の釈迦如来像の裳懸座の影響を受けたとお考えである。
 円空が法隆寺を訪れたのがはっきり分かるのは寛文11年である。自筆の写しであるが関市弥勒寺に残された「法相中宗血巡」にその年号が見える。小島先生はそれ以前にも法隆寺を訪ねていることを想定しておられる。それは北海道へ渡る前であろうと。というのも血脈の中に円空が「多年ほしがっていたので与える」旨が書かれているからである 

(2)寛文年間円空年表
(「円空仏入門」より)

 さて、どの時期に円空は法隆寺へ出かけていたか、三重県伊勢市中山寺や津市浜城観音堂にある極初期像はいつ作像されたのかはこの年表からは見えてきません。寛文6年から7年東北・北海道へ行っている時期は別にして、今問題にしている長い裳懸像はいつ頃からいつ頃まで、なぜ作られたのかは、想像するしかありません。寛文11年の天川村以降は少なくなるのではないかと思います。
年号 干支 西暦  年令  出来事  典拠 
寛永9  壬申 1632 美濃国(岐阜県)で出生 群馬県富岡市一ノ宮
・貫前神社旧蔵『大般若経』
寛文3 癸卯 1663  32  11月6日岐阜県郡上市美並町根村・神明神社の天照皇太神など3体造像  棟札 
寛文4  庚辰  1664  33  九月吉日、美並町福野・白山神社の阿弥陀を造像  背銘・棟札 
寛文6  丙午  1666  35  1月26日青森県弘前城下を追われ、下北半島を経て北海道松前に渡る  津軽藩御国日記 
        6月吉日、北海道広尾郡広尾町・禅林寺の観音を造像  背銘 
        7月28日、同伊達市有珠町・善光寺の観音を像造  背銘 
        8月11日、同寿都都町・海神社の観音造像  背銘 
寛文7  丁未  1667  36  愛知県海部郡大治町・宝昌寺の観音像造  底面刻書 
寛文9  己酉  1669  38  10月18日岐阜県雁曽礼・白山神社の白山本地仏三尊を造像  棟札 
    愛知県名古屋市千種区田代町鉈薬師の諸像を造像  張氏家譜 
寛文10  庚戌  1670  39  美並町黒地・神明社の天照皇太神を造像  棟札 
        3月28日、岐阜県美濃加茂市廿屋・個人蔵の馬頭観音造像  棟札 
寛文11  辛亥  1671  40  7月15日、奈良市生駒郡斑鳩町・法隆寺の巡堯春塘から「法相中宗血脈佛子」を受ける  関市池尻・弥勒寺蔵「同血脈」写 
        関市菅谷・個人蔵の不動明王を造像  厨子天井銘 
寛文12  壬子  1672  41  5月下旬、郡上郡白鳥町・長瀞寺阿名院の十一面観音造像  背銘 
        6月吉日、美並町半在・八坂神社の牛頭天王造像  棟札 
寛文13  癸丑  1673  42  この頃、奈良県吉野郡天川村栃尾・観音堂の諸像を造像  本尊観音「像内納入紙片」 

(3)観音背面・台座・底部

 
 背面に文字はないが、左肩から右下に向けて5本のひらがな「し」のような彫りが見られる。これも寛文初期像に見られる特徴です。見ていて気づいたのですが、磐座の上に蓮座を造り、その上を裳懸座にしています。底部にも文字はなく色を塗った形跡もありません

(4)「美並村の円空仏」

 上の年表からも分かるとおり、寛文期の円空の造像を考えるとき、美並がポイントになるのではないかと思われます。最初に彫られたであろう仏像も美並ですし、北海道から帰ってきてからもすぐに美並へ戻っているようです。この時期美並は円空にとって、活動拠点であったことは確かなようです。では、寛文期に円空はどんな像を美並に残しているのかを見てみました。
 私が持っている資料は「美並村の円空仏」(美並村教育委員会編1998年発行)という155体の円空仏が掲載されている本です。これを見ながら考えてみたいと思います。
 この本では美並町に残されている円空仏153体の内訳を次のように分類されている。
区分  小分類(体)  計(体) 
初期  寛文3年以前  9  9 
寛文前期   寛文3年    4
〜4年      1  
   28  
寛文5年     5
寛文後期    寛文9年     4  29 
〜寛文10年  1 
〜12年    24 
延宝期  延宝7年    78  78
天和・〜貞享  天和3年〜貞享3年   9  9 
合  計                    153体

(A)初期(1662以前)について

 この分類について異論も出されています。例えば初期に分類されている9体は円空作ではないという評価の方が多いようです。これは円空は美並で生まれ育ち、木地師出身であるという主張とも関係しています。何れも神像です。美並時代の庇護者であった西神頭家に伝来する「八幡大菩薩」背面台座に尊名が書かれています。これは円空の文字のように見えます。この台座は畳の下に箱か行李のような台に乗っておられます。ちょうどお雛様の台に似ています。背中に斜め線はありません

(B)寛文前期(1663〜1665)について

 続いて寛文前期像です。引用します。(P,18)

 「特徴としては「眼を大きく見開き、墨で瞳を入れ、全般に繊細かつ丁寧な仕上げが多く、背面には左肩から右斜め下へ3〜14本の斜刻線があり、束帯姿の神像もあります。神像は、勝原・子安神社の子安明神は座像で、台座のない姿と、台座に座しそれを着衣が覆う形の姿に分けられます。衣文は鱗状・斜状・波状などさまざまであり、頭部は壇神像では、冠・烏帽子が多く、山の神や八面荒神は炎髪となっています。女神像では、髪が長く方から背面を覆う姿が見られます。
 仏像は7体ですが、そのうち、福野。白山神社の阿弥陀如来座像が最初の仏像で、棟札によって裏付けられています。同時期の神像と同じ形ですが、やさしい顔、通肩、覆肩布などに仏像らしさがみられます。
 
他の6体は、台座が臼座に蓮華座を重ねた形になっていて、きわめて丁寧なつくりです。
 背銘に墨書や刻書のある像が多く、また裏付けとなる棟札もあり、その優れた像容と共に、円空仏5,000体の指標となる諸像です」 
 ここに書かれていないことです。子安神社の子安大明神は磐座に立っています。磐座が初めて登場しています。同神社の薬師如来は臼座の上に蓮座があり、蓮座の横に出っ張りのある極初期像と呼ばれている像そのものです。津市浜城観音堂の大日如来や伊勢市中山寺の像に似ています。ただ眼が違うのですが、同時期の山王社の山の神や西神頭家蔵の八面荒神と同じややつり上がった筋彫りではない眼をしています。

(C)寛文後期(1666〜1672)について

 いよいよ直接裳懸座が長くなる時期の円空仏が登場してきます。この本ではP,95に153体(他に移座された2体計155体)が寛文年毎に分類されています。(P95〜97)それによりますと以下のような像数になります。そこまで分類できるのかと思うのですが、美並だから出来る仕事のようにも思います。棟札、刻書、その他文書類が豊富に残されており、星宮神社や西神頭家が健在で、早くから町がバックアップして研究体制を支えてこられたことが関係していると思います。
分 類  寛文年  西暦  像数  台座の様子など 
初期  寛文3年以前    9   
寛文前期     寛文3年  1663  3  棟札のある天照皇太神など3体 
寛文4年  1664  18  極初期像仏像登場、
台座のない姿と、台座に座しそれを着衣が覆う形の姿
磐座及び臼座の上に蓮座の台座  
寛文5年  1665  5  山の神・八面荒神と仏像3体(白山神社蔵)極初期像
寛文後期    寛文9年  1669  4  阿賀田神など4体とも神。いずれも裳懸座。比率は1対1か裳懸の方が長い。
1体だけ磐座の下に臼座の台座 
寛文10年  1670  1  神明社の天照皇太神像のみ。背銘に梵字が書かれている。台座は裳懸座 
寛文12年  1672  24  神像は4体。仏像20体。仏像は8cm〜15cmまでの小像で個人蔵のものが13体。神像も仏像も裳懸座。但し台座に座しそれを着衣が覆う像が3体。臼座の上に裳懸座形式が21体で大半であり、美江寺同様裳懸座の下、隠れた部分に蓮座が線刻されているようだ。写真では判然としないものが1〜2体ある。 
 この分類から見えてくることです。
@極初期像は、寛文4年から作り始め北海道から帰ってきてからは姿を消すこと。したがって三重の極初期像は寛文4年から寛文5年のわずかな時期に作られたのではないかと思われる。
A美並では裳懸座が表れるのは寛文9年からで、北海道・東北巡錫後からである。
B台座の変遷を見ると、次のようにまとめられる。
1,最初は台座のない姿であったり、台座を覆う形で座す姿で彫られている。
2,次に磐座のみ、臼座の上に蓮座の台座という形式が表れる。(この形式は後々まで続く)
3,裳懸座の像の中にも、裳懸座+臼座、裳懸座+蓮華座+臼座という2種類がある。
4,長い裳懸座も見られるが、極端に長い美江寺のようなものは見られない。

最後に「美並の円空仏」からの引用をします。(P,34)

 「いずれも座像で、裳懸座(膝上から台座にかけて裳がVの字型に垂れている形)が共通しています。また台座は極端に長いものがだんだん短くなり、仏像は、寛文前期と同じように臼座に蓮華座を重ねた上に座した形になっています。背面には梵字や種字や真言が墨書してあり、像名を記したものもあります。斜刻線は3〜5本となっています。(中略)本村の寛文後期の諸像はは、荒削りの円空仏となる直前の、小じんまりした像容にその特徴を見ることができます」
 結論です。美江寺の裳懸座の長い観音像は寛文9年前後ではないでしょうか。
 もう一つ、これは確信がある訳ではないのですが、裳懸座という形式は確かに法隆寺の釈迦三尊像にあり、円空はその影響を受けたかも知れません。しかしそれは寛文初期像の台座に座しそれを着衣が覆う形の姿の発展と見ることも出来そうに思われます。神像から仏像へ彫り進めていった円空は、両者を融合する座として裳懸座+臼座さらに蓮座をあとから加えたのではないかと考えます。
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