円空さんを訪ねる旅(79)
関市永昌寺
(関市武芸川町高野)
2017年3月26日(日)、中日文化センター主催の『早春の岐阜・関・美濃へ円空仏に会いに行く旅」へ参加しました。@岐阜市美江寺→A関市永昌寺→B関市神光寺→C美濃市竜昌寺と四カ所六体の円空さんと出会ってきました。
岐阜市の美江寺については「円空さんを訪ねる旅(79)美江寺」で紹介しましたのでご覧下さい。ここでは、裳懸座の長い円空仏について美並町の円空仏との関係で考察してみました。同時に円空初期像(寛文前期・後期)の特徴について考えることが出来ました(但し東北・北海道の仏像は除く)。
(1)永昌寺青面金剛神像
(65.5cm)
この像は、もともと郡上郡美山町中洞の梅谷寺にありました。無住になったためにここへ移座されてきました。
私はかねがねこの青面金剛神(しょうめんこんごうしん)像をぜひ拝観したいものだと念願しており、講師の小島梯次先生(円空学会理事長)にお願いしていたものですから、今回の企画は大変ありがたいことでした。ではまず写真で紹介することにします。
(1)永昌寺青面金剛神像
この像の特色です。怒髪、憤怒相、鱗状の衣文、三叉戟と柵縄を持つ、深い彫り、磐座に立つ、お腹が膨らんでいる、足元に二人の男女が彫られている。背面には種字も背銘もない、底を見ると何か塗られた跡があり、この像自体も少し赤っぽい印象を受ける、顔と体全体のバランスはとれているということです。
制作年代ですが貞享頃ではなかろうかということだそうです。決め手になるものがなく正確には決められないのです。
(2)青面金剛神と庚申待信仰
(岐阜市美江寺青面金剛神像を参考にして)
美江寺のご住職に「この青面金剛神は何時代ですか?」と聞いておられる方に対して「江戸時代だろう」と答えておられました。火焔を後背に着けたり、虎の皮の前掛けをしたり、手が六臂であったり、三猿が彫られていたりするところから、江戸時代に流行った大津絵と似ているといえます。儀軌から付け加わった要素が見えます。一番古い木造青面金剛像は東大寺にあり重文だとか。
今、色が落ちて黒っぽくなっていますが、顔や首辺りに緑色が見えます。おそらく作られた当初青かったのではないでしょうか。
そもそも青面金剛神とはどういう仏様なのかというと、悪病をもたらす悪神でしたが、心を入れかえ病魔を退散させる善神になったそうです。全身青い色をしているところからこの名になったようです。怒りが極限に達すると青くなるのだそうで、蔵王権現が有名ですが、他にも明王像の中に青い色の像があります。
道教の教えに人間の体内には三種類の三尺という悪い虫が住んでいて、庚申の日(60日に1回)の夜、睡眠中に体外へ出てきて、その人の悪事を天帝に告げると言われています。寝なければ悪事も告げられないというので、この日は夜通しみなで集まって酒宴を行うという『庚申待』の風習があったらしく、その人々の集まりを「庚申講」と言い、全国各地にあったようです。
歴史的に振り返ると「庚申待」は平安時代の貴族の間から始まったらしいのです。音曲を楽しんだり、酒宴を催したりもするようになったようです。青面金剛神はもともと仏教に『庚申信仰』が取り入れられたとき主尊として拝まれたようです。神道では猿田彦と結びつけられたらしい。申(猿)から日吉神社とも結びついたり、それが鎌倉室町になると武士層にも広がり、織田信長も行ったことが記録にあるといいます。
特に江戸時代寛永期以降庶民層に広がったそうで、ちょうど円空が生まれた頃に重なります。
『阿弥陀如来集経・第九』には「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」とあるらしい。
美江寺の像は三眼の憤怒相で六臂、胸に髑髏の首飾り、体に蛇がまとわりつき、手には金剛杖、棒、宝剣、法輪、半裸の女性、羂索を持っています。虎の皮の前掛けを着けています。足下には三猿がおり、邪鬼を踏みつけ、どうも蛇もたくさんいるようです。その下の台座にはニワトリが二羽見えます。両脇には二童子がいます。頭にも猿がいます。
(3)円空作青面金剛神の変遷
円空の青面金剛神は現在16体確認できるそうです。(『円空仏入門』(小島梯次・P103)下呂町に5体、金山町に2体、南接する加茂郡白川町に3体あるそうです。つまり晩年飛騨で造像した頃に多く作ったことになります。
私はそのうちのいくつかの写真を撮っていますので次のページを見てください。
1,下呂市飛騨合掌村の3体
2,加茂郡白川町庚申堂1体
この晩年の青面金剛神の像容は、怒髪、手を胸前で合わせ宝珠を持つ、三面のものと一面のものがある。三猿を彫っている、など儀軌から離れ自分自身の青面金剛神を思うがまま作像しているように思われます。
小島先生が参考資料として、名古屋市荒子観音寺の像(30.5cm)と関市個人蔵(26.5cm)の写真を示して下さいました。
荒子観音寺のものは、儀軌に則ったもので、手は六臂、宝珠、法輪、半裸の女人、羂索?、剣か棒 右手上不明を持ち、髑髏の首飾りをしています。磐座の前に三猿がおり、ニワトリも二羽彫られています。半裸の女性が一体何なんかショケラという名で呼ばれることもあるようですが、反対意見もあり未だ結論が出ていないようです。頭は怒髪です。この像は何とも下手くそな像で、魅力がありません(私の印象)。ただ、円空は青面金剛神とは本来こういう像なのだということを認識していたという点で大変貴重だと言えます。確かなことは言えませんが、これが最初に彫られた青面金剛神なのかもしれません。
関市個人蔵のものは、永昌寺像とそっくりです。手は二本。今は失われたようですが、三叉戟と羂索を持ち、足元に男女像が彫られています。半分ぐらいの大きさですが磐座には三猿も彫られています。
すべての青面金剛神を確認していませんのいい加減なことにを言うことになるかも知れませんが、仮説として、荒子形式から円昌寺形式になり、下呂形式へ変遷していったのではないかと考えられます。
*白川町のもう一体は『円空研究5美濃』(円空学会編)人間の科学社』写真がありました。61cmと大きく個人蔵です。像容は庚申堂のものと同じです。
*金山町の1体は『円空研究1荒子観音寺(円空学会編)人間の科学社』に写真がありました。背銘に元禄4年の年号が入っており、下呂市の三面の像の2日前に造像されており、像容はよく似ています。
*現在下呂市飛騨合掌村にある3体の内の一体で個人蔵の青面金剛神はかなり憤怒像として迫力のある顔です。私は初めて見たとき像に異常な恐ろしさを感じました。円空仏としては珍しいと言えます。まず見えている4本の手に腕がなく手のみ出ています。一番上の肩から出ている左手に女性(だと思う)を握っている。右手に何を持っているのかは不明。本来の手が出るであろう下から出ている手には何も持っていません。もう一対の手は宝珠を衣の上に持ち手は隠れている。『円空研究4飛騨』(円空学会編)人間の科学社』参照。参考までに腕の無い像はいくつかあります。高山の郷土館の愛染明王が手の表現がそっくりです。円空美術館や栃木県日光市清滝寺不動三尊のコンガラ童子も腕が省略されています。
3,高山郷土資料館愛染明王像
(4)永昌寺青面金剛神にある男女は何者?
さて、私がこの像に惹かれた理由の一つであるこの男女像です。小島先生は左は僧で円空自身、そして左は尼僧ではないかとお考えのようで、円空には生真面目で宗教家として修行し刻苦勉励する側面と、人間くさいユーモラスな側面が同居していたのではないかとお考えのようで、次のような意味があるのではないかとお考えのようです。
まずこの二人のポーズで気になるのは女性像が両手で耳を塞いでいることです。しかし顔は驚いているようですが嫌がってはいないようで笑っているように見えます。男の方はおもしろがってこちらは明らかに微笑んでいます。ここから想像できることは男の方が女の方を口説いているのではないかということです。
私はあれ?そうかなと思いました。
まず男の持ち物です。左手は宝珠です。右手は金剛杖でしょうか。これは明らかに巡錫する修業の者、修験者の持ち物にふさわしそうです。しかし宝珠を持ち歩くわけではないので、それだけの徳を持ったものであるぞということを示したかったのではないかと想像しました。気になるのは頭です。どう考えてもちょんまげでもないし剃髪もしていません。装束は袴をはき袖の長い上着を身につけています。これで旅は出来ません。そして髪を整え烏帽子を被っています。神官のようにも見えますし、お公家様のようにも見えます。
以前小島先生にお聞きしたことで印象深く伺ったことがあります。それは円空は頭を丸めず頭髪を伸ばしていたのではないかと思うという話でした。自刻像と呼ばれている像で剃髪しているものはどうかな?ということでした。
女の方は長い髪をしています。尼さんって髪を伸ばしてもよかったのでしょうか。映画やTVに出てくる尼さんはみな剃髪していませんか。後家になったら「髪をおるす」という台詞を時代劇でいっぱい見てきたものですから長髪の尼さんが想像できません。装束は、これ又袴をはいて袖の長い上着を羽織っています。神社の巫女のようでもあり、お公家さんの奥様あるいはそれに仕える女性のように見えます。
これは「庚申待」の主尊の青面金剛神です。何でも庚申待の夜に男女同床は避けたのだそうです。というのは、そうして生まれた子は「どろぼうの資質」を持って生まれると言い伝えられていて、石川五右衛門はそうだったというのです。ほんまかいなと思いますけど。現代のように夜中も明るくて店もいっぱいあってということのなかった時代、夜遅くまで灯りをつけておいしいものを食べ酒も飲んだであろう「庚申の夜」はさぞかし楽しい集落の行事だったのではないでしょうか。60日に1回巡ってくるこの庚申の日は盆と正月と祭り以外の楽しいことだったと思われます。江戸時代になってやっとそういうことが楽しめるだけの生産力の向上があって、経済的な余裕が生まれたのではないかと思います。
庚申の夜には少しおめかしもして出かけたのではないでしょうか。若い男女の出会いのキッカケになったかもしれません。若くない円空もその輪の中に入っていたかもしれません。
(5)安曇野の石造物と永昌寺の男女
私は長野県安曇野市穂高で道祖神巡りをしたことがあります。各集落毎に次の3種類の石造物が祀られていました。
1,道祖神とは日本に古来からあった生産、生殖の神として、五穀豊穣や子孫繁栄、縁結びの願いをかけたものといわれます。また村に悪いものが入るのをさえぎる護りの神ともいわれます。
2,二十三夜塔とは、月齢23の月の日(二十三夜)に「講」(集い)を組織した人々が集まって月の出を待つ月行事「月待」にまつわる塔。
3,庚申塔は、庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申の日、寝ている間に体内にいる「さんしの虫」が天帝に悪事の報告をするを防ぐため夜通し眠らず集団でにぎやかに過ごす信仰。
「安曇野の道祖神」参照
この道祖神巡りをしていて気づいたのは道祖神が宮廷貴紳の男女像になっていることでした。もちろん農民風の者もありましたが圧倒的に多いのが宮廷風の衣装を身につけた男女像です。これは松本あたりでもそのようです。その中の双体道祖神と呼ばれる男女の神様を表す道祖神がこの永昌寺の男女の服装に大変よく似ている。そして結界の役割を庚申塔がしているのです。
安曇野には穂高神社があります。「上宝町桂峯寺の十一面観音背銘に保多加(穂高)の名があります。実際登った可能性は少ないようですが、私は穂高神社へは行ったのではなかろうかと思っています。長野にその足跡がないのに無謀な想像になりますが、もし円空が道祖神と庚申待が併存習合している集落の様子に精通していたとしたら、この宝昌寺の青面金剛神に宮廷貴紳の姿があってもおかしくないと私は考えています。
「桂峯寺の円空仏」参照
この論の最大の弱点は道祖神信仰が甲信越・関東地方だと言うこと(とりわけ長野)と円空が長野巡錫の痕跡が見あたらないことです。しかし栃木・群馬・埼玉へ向かった円空が長野を通らないはずはないと強引に思っています。
(6)「円空仏にみる性的表現について」(佐藤武)論文のこと
「円空仏にみる性的表現について」(佐藤武・【円空研究4飛騨・円空学会編・人間の科学社】という論文がある。この男女像を考えるヒントになろうかと思うので取りあげたい。
この論文で佐藤氏は円空仏の性表現の系統を3つに分けている。
@自然木の姿や節を利用して性的表現をしているもの
A儀軌等によることから性的表現をしているもの
B像の全体または一部に、あきらかに性的表現をしているもの
そしてそれぞれについて具体的に像名をあげて検証している。
その中でAの例としてあげられている丹生川池之俣伊太祁曽神社の男女神像があげられている。引用する。「この神像がなぜ男女神像となっているのかは、はっきりしていないが神の形象化も人の形で表現し、その形式は宮廷貴紳の姿を男・女神ともとるようになった。この像はそうしたもののうちおそらくは民間信仰としての山神であろうと思われる。このような場合、二神像を男神と女神とに区分しているが木地屋の社会ではこのような像を夫婦神としてまつる風習がある。これはそうしたものの一つかと考えられる」
さらに論は進み、なぜ円空が性的表現をしているのかの背景を@円空以前の性表現仏A民間信仰や修験道と性表現B円空の人柄と性表現の3点から迫っている。
私は特にBに興味を覚えた。円空の和歌の中に歌われる円空の恋や性の歌を取りあげ、人間円空に迫ろうとしておられる。円空の和歌と言えば神や仏を称え、自身の信仰心を述べる和歌が多く紹介され、円空を大宗教家にして、上人としてその徳を称える傾向が最近特に強調されているように私は感じる。しかし、この論文が発表された頃の自由闊達な円空研究に興味を持った。
最後結論の部分を引用する。永昌寺の男女に関係があると思うからである。
「これらの歌は僧侶のものとしてはまことに生々しいものであり、円空の性格の一面をあらわしているとみることができよう。だが、私には僧侶としての円空もさることながら修験道における山伏としての影響が強いように思える」
「修験道において山伏の修法が行われるときは女人を交えぬが、修行が終わったあとには精進落としと称して女人と遊ぶははばからなかったとされる時代であったから前述の歌に脂粉の匂いのするのも当然かもしれない」
また、尼寺との関係も見落としてはならない。筆者は尾張野の円空仏を求めて歩きまわっているが、名もない小さな尼寺でいくつもの円空仏を見出すことがしばしばある」
「さらに全国各地を巡錫し一宿一飯の恩義にあずかり、仏像施与の造仏活動を通じて俗人との交わりも多く、潜在的に性へのあこがれというものが人間円空の中になかったとはいいきれまい。あるいはまた男色の関係があったのかもしれない」
なかなか思い切ったことが書かれている。「聖と山伏」という五来重氏の論文があるので読み直してみたが、このことについての論究はなかった。しかし以前確か聖と尼僧との関係について書かれたものを読んだ記憶がある。また見つかれば紹介したいと思う。
(7)着色された跡
ご覧のように底面に着色の痕跡がみられる。 墨だろうか、今までも墨で着色したと思われる像は見たことがあったが、これは少し色が赤茶色っぽい感じがした。墨も経年変化すればそういう色になるのかなとも思うが、他のもので着色した可能性もあるのかなと思った。青面金剛神だけに青い色を意識したかも知れないとも思ったが、何しろ像全体が、茶色っぽいのである。柿渋?が頭をよぎったが何の証拠もない。 円空作で他に墨以外のもので着色したもので私が見たのは、唇に朱を施したもの、神像で冠には墨を体には柿渋を使ったと思われる像があった。なぜ着色する必要があったのか、するものとしないものに違いはあるのか、これも丁寧に分析すれば何か分かるかも知れない。 |
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