円空さんを訪ねる旅(84)
大善院
(さいたま市浦和区東仲町)
2017年5月21日(土)クラブツーリスム主催「円空仏の魅力を学ぶ講座と浦和の円空仏に出逢う日帰りツアー」に参加してきました。22日(日)は群馬の円空仏を拝観するという2日間連続ツアーでした。
21日(土)は最初西新宿の新宿アイランドウイングで講師の小島梯次先生(円空学会理事長)の講座を聴き、場所を浦和大善寺へ移し円空仏を拝観しました。新宿駅までの移動の道で都庁の建物を「ホー!」という感じで見ました。
今回のツアーで私が一番不安だったのは、東京メトロ「西新宿駅」行けるかでした。私のような都会慣れしていないものには、東京は交通網が複雑で、乗り換えの連続に戸惑いと不安が交錯します。
大善院は浦和の駅から歩いてすぐの場所にありました。三井寺の末寺で修験道の寺です。
役行者像
(51.3cm)
役行者…7世紀から8世紀にかけての山岳修験者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国葛城山に住んで修行、吉野山の金峯山・大峯などを開いたという。699年韓国連広足の讒によって伊豆に流された。謚号は神変大菩薩。役の優婆塞。延小角。(広辞苑より)
役行者は、修験者にとっては開祖ですから尊敬の対象です。仏教の場合釈迦よりも自分の宗派の開祖の方を敬う傾向にあるように思います。
修験には大きく分けて天台修験と真言修験があり、天台修験は三井寺や聖護院が、真言修験は醍醐寺が中心になってきたと私は理解しています。大峯山の修行はどちらも行ったようで、それを開いた役行者は不思議な霊力を有する修験者で、実在したのかどうかもどうなのかと私は思ってきました。
日本の神々と密教を融合しどちらも敬い、自然の中で自らを鍛えその霊力で祈るという信仰は日本人の宗教観に合致します。しかし明治の廃仏毀釈で相当ダメージを受けました。おそらく超能力とか神秘的な側面が近代思想と合わなかったのでしょう。
円空は関東へ来る前、役行者像を2体しか彫っていませんでした。大和松尾寺と尾張荒子観音寺に。
松尾寺の行者像はリアルな像で微笑んでいます。そしてその背銘には法隆寺文殊院の僧秀恵の名が記され「延宝(1675)山乙卯年七月於大峯圓空造之」の文字も見えます。当時圓空は法隆寺で堂衆として仲間の修験者から学んでいたようです。当時の法隆寺は修験道を学ぶ場であったようです。とりわけ堂衆の集まる寺ではそうであったようです。
修験道を学んだ円空が、蔵王権現、役行者、前鬼、後鬼など修験者らしい像をあちこちに彫り残していても不思議ではないのですが、集中的に役行者像を彫るのが、この関東なのです。何と現存する役行者像13体の内11体は埼玉県なのです。
円空は、その土地土地でその土地にあった仏や神々を彫り与えます。埼玉には役行者が必要だったのです。これは関東巡錫の目的を考える大きなヒントになると思われます。
それにしても美濃、尾張、飛騨では関東から帰ってからの役行者像も見つからないというのは、円空が、依頼者の意向に合わせて彫っていたかを如実に表していると考えられます。
この行者像、相当齢を重ねた老人です。小島先生が13体の行者像の写真を用意してくださったのですが、埼玉の像はみな年寄りです。穏やかな静かな表情を浮かべています。足元二枚刃の高下駄を横向けに履いています。他も下駄は横向けで不自然です。
松尾寺は若々しい笑顔の像です。具象的な像で、高下駄を履き錫杖と三鈷を手にしており、頭に頭巾を被り髭を蓄えています。上着の下に袴のようなものを履いているように見えます。
しかし、この像は頭に何かを被り、僧形のようです。右手には錫杖、左手の持ち物は色々意見(宝珠・蓮の蕾など)が出たのですが、三鈷を立てていて、上だけ見えているのではないかという意見に納まりました。ま、役行者の持ち物としてはふさわしいと思います。
底面を見ると若い木の丸太を三ツ割にしたようで、年輪が見えます。中心からは少しずれているようです。右手に錫杖を高く上げさせるべく多めに木の巾をとったのでしょうか。着色はしていません。
関東巡錫の概容
関東の円空仏について私のHPで取りあげるのは初めてですので、いくつか基本的なことについて調べてみたいと思います。「円空仏入門」(小島梯次著・まつお出版・2014)を参照しました。
Q1,関東地方に円空仏は何体あるのか?
関東地方関東で確認されている円空仏は238体(移入仏30体を含む)
Q2,円空は関東のどこに仏像・神像を残しているのか?
群馬16体(1)・栃木26(11)・茨城3・埼玉172・千葉2・東京16(16) 括弧内は移入像数
*1圧倒的に埼玉での造像が多い。活動拠点は埼玉である。日光も重要。
*2江戸には彫刻はないが和歌が詠われている。
*3神奈川・山梨にはない。
想定できることとして美濃・尾張からのルートは東海道ではなく、中山道、日光街道などが考えられる。
Q3,残された文字・記録で重要なものは?
@貫前神社旧蔵大般若経断簡(千葉県芝山町・はにわ博物館蔵)
A仏性常従金剛宝戒相承血脈(関市池尻・弥勒寺)
B茨城県笠間市月崇寺観音背銘『御木地土作大明神』
C富岡市黒川・不動堂千手観音背銘梵字「後頭部にウ・身体部に退蔵界大日如来三種真言」
D郡上市美並星宮神社にのこる円空自筆文書「天和二戌九月吉日」の文字と貫前神社の朱印
E栃木県鹿沼市広済寺千手観音(日光より遷座)背銘中に「天和二」の文字
F日光山内月蔵寺の円空作閻魔王背銘に円空の師高岳の因縁書き
G日光市山内滝尾神社稲荷像背銘「日光山一百廿日山籠 稲荷大明神 金峯笙窟圓空作之」の文字
*1,日光で修行していた。血脈を承け多くの経典を手に入れている。(修行・学びの旅)
*2,貫前神社(一宮)も活動拠点であった。
*3,天和二年に関東に滞在していた。
*4,「金峯笙窟圓空」という名乗りは修験道僧としての自負を感じさせる。
Q4,円空が関東にいたのは、いつのことか?
延宝8年(1680)庚申(円空49歳)9月中旬、茨城県笠間市大町・月崇寺の観音背 銘に年号、貫前神社旧蔵大般若経断簡に同9年の年号(この年は天和初年)、天 和二(1682)壬戌(51歳)広済寺千手観音(日光より遷座)背銘中に「天和二」の文字。他日光山内・光樹院の高岳から「サラサラ童子法」などを受ける(郡上市美並星 宮神社にのこる円空自筆文書)。
つまり延宝8年(1689)、延宝9年(天和1年・1690)、天和二年(1691)の3年間 にわたると言うことになる。
(但し元禄2年銘の入った像が日光市個人宅にある)
Q5,関東巡錫の目的は何か?
これが、一番の問題だと思う。もう少し詳しく調べたいが、とりあえず小島先生のまとめだけ記しておこうと思う。
「円空が関東へ向かった直接の動機は、当時関東修験の中心であった不動院の本尊造像のためではなかったかと推定される。不動院は現在廃寺になっているが、かつて武蔵国葛飾郡幸手領小渕村(現・春日部市小渕)にあった関東地区の本山派修験寺院を統括していた寺である」