円空さんを訪ねる旅(89)
上野一宮貫前神社
(群馬県富岡市一之宮)
貫前(ぬきさき)神社に円空仏はありません。しかし円空研究では大切な神社です。
私は、以前レンガ建築求めて富岡製糸場へ行ったことがあります。今から10年前のことです。その帰り道バスの中から貫前神社の大きな鳥居を見ました。私の通っていた道は信州街道だったようです。ああ、ここがあの円空の貫前神社かと思いました。しかし降りることもなく通り過ぎました。今回の旅行で、不動堂近くに貫前神社があると聞き、寄ってもらえないかとお願いしましたら、実現しました。
私が見たのは駐車場入口のもので、この鳥居ではありません。この鳥居は拝殿や本殿が見下ろせる場所から見える鳥居です。こんもりした木々の辺りに川が流れているそうで、この神社は川の河岸段丘に建っているそうです。円空さんを訪ねる旅(88)の不動堂は川の向こう岸にあります。(88)不動堂の十一面千手観音は、元々貫前神社にあったものが明治時代に燃やされそうになっものたと聞きました。相当数の円空仏があった可能性がある貫前神社です。
これは総門から見た写真で、一旦登ってきた参道を今度は下っていくという「下り宮」という形式だそうす。こんな神社初めてです。そしてこの神社の社殿は徳川家光や綱吉が尽力したようで、豪華な極彩色の彫り物で、重要文化財に指定されています。
円空と貫前神社
上野国一之宮貫前神社旧蔵大般若経断簡
(1)貫前神社大般若経奥書断簡考
現在「はにわ博物館(千葉県山武郡芝山町)に所蔵されている貫前神社旧蔵の大般若経断簡に円空自筆の下記の記載があります。
この断簡について考察してみます。
原文 |
十八年中動法輪 諸天晝夜守奉身 刹那轉讀心般若 上野ノ一ノ宮今古新 いくたひもめくれる法ノ車仁ソ一代蔵も輕クトドロケ 延宝九年辛酉卯二二月丁酉日辰時十四日見終也 壬申年生美濃国圓空(花押) |
私の現代語訳(解釈)です |
私は十八年間、法輪を動かしてきました。諸々の天部となって昼夜にわたり身を奉じて法を守ってきました。 わずかな時間ではありましたが、大般若経を転読いたしました。上野ノ国(群馬県)一之宮でのこの体験は古くも新しい感動的なものであることを今感じております。 和歌「何度も何度も仏の教えが書かれた大般若経を読み、一世一代で建てられた立派な蔵も、そのありがたさが響き渡っているようでございます」 延宝9年(1681)辛酉(しんゅう)年卯月(4)月丁酉(ていゆう)(14)日辰の時(午前8時頃)に見終わりました。 壬申年(寛文2年1662)美濃國(岐阜県)生まれの円空(花押) |
この断簡文の持つ意味 |
@延宝9年(1681)4月14日円空(50歳)は貫前神社にいたこと。 A貫前神社で大般若経を転読し、学んでいたこと。志摩国片田や立神のように大般若経の修復に携わったかも知れないこと。 B円空が生まれたのは、壬申年(寛文2年1662)で、美濃国(岐阜県)であること。 C十八年間法輪を動かし、諸天(様々な天部の意か)となって昼夜身を奉じて守ってきたという自負を持っていたこと。 |
用語の意味 |
*法輪…仏の教えのこと。仏法。 *転法輪…仏の教え(法)を説くこと。仏の教えが一切の煩悩や邪説を破ること。転輪王が輪宝を転じて一切の敵を破砕するのにたとえる。転法輪堂は、仏祖の教えを説くお堂(法華、講堂)のこと。(一般的には動法輪は円空が間違って使用した用語と解釈できるが、何か新しい意味を付け加えているのかも知れない。) 転読…@経典を読誦すること。A大部の経文の初・中・後の要所たる数行または題目を品(ほん)名とだけを略読して全巻読誦したことに代えること。特に大般若経600巻の転読は広く行われる。転読←→真読。 *丁酉日…暦に関係がありそうですが意味不明です。 (いずれも「広辞苑」より) |
これから書くことは「円空研究2」(円空学会編・人間の科学社刊・2004年新装普及版)所載「群馬県における円空上人」(池田秀夫)論文から学んだことでです。
(2)断簡発見の経緯(廃仏毀釈と貫前神社)
@貫前神社の神仏混淆時代の仏教関係資料が、廃仏毀釈の折に破壊、焼失、散逸したことは早く知られていた。
Aこの急先鋒となったのは、江戸末から明治にかけてこの地方の国学者であった新居守村であった。
Bとりわけ一之宮である貫前神社は真っ先に対象となった。
C天保11年「上野国一ノ宮宝物覚」に記載されている仏教関係のものはすべて今はなく、弥勒堂も経堂も見られない。
D神仏分離の際、経蔵から大般若波羅密多経が持ち出され、その他のものと共に神社裏の高田川原で焼却された。
E一部は火の中から取り出され保管されたものも現存するが、一部が焦げている。
F一昨年(この論文が書かれたのは昭和48年頃と推察される)千葉県在住の方が、写経の奥書のみを切断したもの6枚を筆者(池田秀夫氏)に見せるため勤務先である県立博物館へ持参された。
G持ち主の方は、東京の古書店で入手されたそうである。
H応永6,18,19に「釈氏心見曳謹拝手」と記されている。
I6枚を拝借して写真撮影のため一枚一枚丁寧に見直していて、その中にこの円空ゆかりの断簡を発見した。
(3)断簡から広がる疑問・問題
@なぜ円空は生年及び生国を記したのか?(他には例がない)
A「18年中動転法」をどう解釈するか?
B大般若経修復、転読は志摩(片田・立神)上野(貫前神社)だけか?他にもあるのではないか?
美濃の國であることは分かったのですが、美濃のどこなのかを巡って今も疑問は残されたままです。
Aの「18年中動転法」についてです。
18年前は寛文3年(1663)で円空32歳です。この18年前の寛文3年という年は、岐阜県郡上市美並根付、神明神社の天照皇太神、阿賀田大権現、八幡大菩薩を造像したことが分かる棟札の年号と符合します。そしてこの三体が円空彫刻像の最初になります。あまりにピッタリで驚きます。
転法輪が一般的なのに動法輪と書くのは、その年から、つまり18年前から仏像や神像を彫り自分が信じる「晝夜守奉身」を始めたという意味なのかも知れません。そして「護法神」という普通名詞の像を多く彫ったのは、自ら「諸天」となってきたという円空の自負の表れだと考えます。護法神は円空自刻像と考えることに私は賛成です。
先の池田論文にもう一件群馬の大般若経の奥書に「木食円空」の記載のあるものがあるとありました。その後どんな本にも出ていないようなので気になりました。