円空さんを 訪ねる旅(103) 現揖斐川歴史民俗資料館 (岐阜県揖斐郡揖斐川町) |
揖斐川町には、中山道の裏街道が通っている。地図で見ると岐阜、関、美濃などから伊吹山へ行くには、中山道は遠回りになるので、揖斐川町を通る方が近道になるようだ。円空さんは揖斐川町内を歩いて伊吹山を目指したようである。
揖斐川町と言えば西国三十三観音霊場巡りの最終寺「谷汲さん・華厳寺」がある。
2018・3・14(水)ガンダーラの会の「西濃(揖斐川町・大垣市)の円空仏を見る」というツアーに参加した。ぽかぽか陽気のいい天気であった。揖斐川町に円空仏は3体現存しているらしい。その内の2体を今回拝観できた。
一心寺観音菩薩
(揖斐川町三輪)
①播隆の念持仏 | |
この観音菩薩は一度お目にかかっている。以前、「伊吹山の信仰について」がテーマの催しがあり、講演会が開催されたことがあった。円空と播隆についてそれぞれに講演が行われた。その際、この観音菩薩が伊吹山文化資料館で、伊吹山太平観音堂では十一面観音像が公開された。 播隆(1782~1840)は、江戸時代後期の浄土宗の僧侶。山岳行者であり、槍ヶ岳初登頂者。上宝町本覚寺の椿宗という和尚さんの協力を得て、笠ヶ岳登頂を集団で成し遂げ、登山道に道標として石仏を置き、頂上に阿弥陀仏を安置して笠ヶ岳再興を成し遂げた僧である。播隆は笠ヶ岳に登頂した(といわれていた)円空を尊敬していたようである。 この播隆が念持仏として所有していたのが、この観音様である。 播隆と円空については、「円空さんを訪ねる旅37」に書いた。関心のあるかたはぜひ。 一心寺は天保元年(1830)、伊吹山で念仏行をしていた播隆のために領主の家臣が建立した寺(当時は阿弥陀堂)である。播隆は中山道太田宿で没しそこに葬られたが、一心寺にも墓がある。 平成29年(2017)無住になり、現在は岐阜市内の寺の所有になっており、現在は揖斐川歴史民俗資料館に寄託されているということである。資料館に常時展覧はしておられないようで、厳重に包装された状態を開けて拝観させていただいた。 播隆はこの観音菩薩をどこで手に入れたのかが問題になる。 それを考えてみることにしよう。 |
②上宝にあったのでは?
揖斐川町にあるもう一体の円空さんは、寛文の特徴を持つ初期の像である。しかしこの像は初期像ではなく、頭部の宝冠、衣で手をかくし、下半身を思い切りよくカーブさせて足へという流れは、後期の特徴と考えられる。播隆が持っていたということから、彼が活躍した上宝町が考えられる。「上宝ふるさと歴史館」の諸像と比べてみると、上宝で手に入れたのかなと思われる。
③足元と底部
足元 足が大きいなあと思って見ていたら、「観音菩薩なら磐座の上に蓮座があってしかるべきだが、この像は磐座しかない。これは神像かもしれない」と指摘してされた方がおられて、参考にさせてもらおうと思った。 底部 建築古材の角材を三角柱にして彫られているようだ。年輪の中心は左底部にあるようだ。 以前出展されたときに貼られたラベルに「一心寺天和貞享1」と書かれている。時代的には「元禄」の間違いではないかと話し合った。 |
④背面は?
どうでしょう。文字がある? 頭部にある可能性の高い「ウ」か、「イ」は? 背中にどうも文字か梵字のようなものがあるようにも見える。 が、単なる汚れのようにも見える。私には判断できません。 |