円空さんを 訪ねる旅 (104) |
瑞巌寺
(岐阜県揖斐郡揖斐川町瑞巌寺)
大きく立派なお寺である。 建武の新政のころ、後に美濃・尾張・伊勢三国の守護を兼任し全盛を極めた土岐氏がこの地に瑞巌寺を建立した。土岐氏は一貫して足利尊氏軍を援護し続け「土岐絶えなば、足利絶ゆべし」と言われたと言う。 文和3年(1353)六月北朝の後光厳天皇が都の兵乱を避けて、ここ小島頓宮に入り、八月まで滞在した。 瑞巌寺と言えば、宮城県松島の国宝瑞巌寺を想起する。しかしここがその名の最初らしい。 ご住職は気さくでユーモア溢れる話し上手な方であった。面白可笑しく南北朝時代を語られました。円空仏発見にまつわるエピソードも興味深く聞かせていただいた。 |
①観音菩薩座像
(56.5cm)
大変丁寧な彫りの観音菩薩座像である。経年の効果で顔の木目が美しい。穏やかに微笑んでいる。私はリアルを追求し一生懸命さが感じられる初期の円空仏が好きだ。バランスも良いし優しい表情も惹かれる。衣文も美しいと思う。久しぶりに円空仏の模刻がしてみたくなる。北海道や東北に多く残した観音菩薩と繋がる。万仏、様々な仏や神を彫った円空さんであるが、北海道や東北ではなぜこの形式の観音を掘り続けたのかと思う。おそらくこの形式の観音菩薩が一般的に受け入れられやすかったのかなと想像している。
台座は磐座の上に蓮座があるものでこれも円空らしい。手相は定印を結んだ上に蓮台を持っている。円空の定印は右手が下に組まれていて一般的ではない。頭は三段になっていて、その上に火焔状の髷を結っている。
両腕と体部の間のすき間を彫っている。そしてお腹の向かって左に、かなり大きな衣の一部が出ている。
②発見当時のこと
ご住職からいただいた資料におもしろいお話しが書いてあったのでそれを引用させていただく。 「(前略)長らく、本堂南の経蔵に保管されていました。昭和13年(1938)頃、先代住職が先々代住職から、『昔、器用な小僧がおったらしく、彫りかけの仏さんが一杯あったので燃やしてしまった。それで風呂が一晩沸いた。この仏さんは一応完成していたので残しておいた』という話を聞いています。この観音さんの精緻な彫を見れば、この仏さんを中心に、周りを木っ端仏が取り巻いていたであろうこともうなずけます。寛文年間に瑞巌寺の本堂が再建され、古材がたくさんあったので、円空さんはしばらく瑞巌寺に滞在して彫刻されたのではないかと想像しています」 この観音菩薩以外にも円空仏が相当数あったらしいことが予想できます。専門の仏師でなく『小僧さん』が彫った素人作であると見られていたことも円空さんらしいところです。建築材が豊富にあったことも分かります。 |
③制作年代を推定する
小島梯次講師は、寛文10年頃頃の作ではないかとおっしゃっていた。その根拠は、背銘種字の書き方、及び像内納入品のほぞ穴の存在、及びその像容からである。
(A)背面種字から
頭に文首文字(イ)があり、背中真ん中に仏名である観音の(サ)が書かれている。その下に金剛界五仏種字が書かれている。左から順阿弥陀の(キリーク)、中に大日如来の(バン)、右に阿閦如来の(ウーン)、(バン)の下中央台座部分に宝生如来の(タラーク)、さらに不空成就如来の(アク)が続く。それを護るように、台座部分に、左不動の(カーンマーン)、右に毘沙門の(ベイシラマンダヤ)が配置されている。 円空が金剛界五仏種字の種字を背面に書くのは、北海道・東北から帰ってきてからである。北海道・東北では「六種種字」が書かれている。下の円空誕生から寛文年間の年表(小島梯次著「円空仏入門」をもとに作成)で考えてみる。金剛界五仏種字が書かれる最初の例が寛文9年の白山神社の阿弥陀背面種字である。円空が飛躍的に種字を使いこなせるように進歩したのは、寛文7年~9年の間ということになる。円空は寛文11年に法隆寺で血脈を承けている。その血脈には円空が多年血脈を欲していたから与えるということが書かれている。法隆寺で種字を学んだ可能性は高い。当時の法隆寺には円空を惹き付ける修験道の堂衆子院が多く存在していた。 この観音菩薩像は種字から寛文9年以降であると考えられる。 |
(B)像内納入品の埋木ほぞ穴
下の写真中央辺りに像内納入品を入れたほぞ穴埋木が見える。未開封のため中の納入品は不明だが、他の例から想像はつく。
円空の像内納入品については以前小島梯次先生の講演をまとめたものがあるのでそれを書いておく。
像内納入品のある仏像を円空が彫るのは、寛文9年(1669)~延宝2年(1674)までの5年間であるということである。
背面に7本の曲線が左から右に彫られている。これも初期像の特徴である。
たくさんのキズがある。おそらく建築材で最初からあながあったのではなかろうか。どうやって埋木をするのかと思った。「まず穴を掘る。上部が四角形の四角錐形の埋木を打ち込み、削る」という説明になるほどと思った。
像内納入品のある円空仏について 1,像内納入品のある円空仏は現在14体(全5400体中)。そのうち中身が確かめられているのは6体。羽島市中観音堂に3体ある。 2,円空が納入物を入れたのは寛文9年(1669・38歳)から(延宝2年(1674・43歳)までの5年間。鉈薬師の阿弥陀像・日光菩薩から三重県志摩市三蔵寺観音菩薩や岐阜県関市松見寺峯児大権現あたりまで。岐阜県羽島市で最近個人蔵の釈迦如来像(寛文10年頃の作)が発見された。 3,像内納入品のある円空仏とその中身 ・仏舎利石は6例とも、金剛界五仏種子(梵字・種子)は5例ある。 ・仏舎利石…舎利(釈迦の骨)の代わりに入れる(中観音堂阿弥陀如来像と羽島個人蔵釈迦如来は5個 不動明王像は9個) 個数は供養する人の人数を表しているのではないか。 ・金剛界五仏種子(ウン阿如来・キリーク阿弥陀如来・バン金剛界大日如来・タラーク宝生如来・アク不空成就如来) 種子の数は供養する人数を表しているようだ ・小観音像(真っ黒に塗られていた…栃尾観音堂観音菩薩像・栃尾の像内には金剛界五仏種字も舎利石もあった) ・書き付け1(年号や作之と読める文字…栃尾観音堂観音菩薩像) ・書き付け2(奉転読大般若経祈所背不可●●●教五眼●放●●菩薩…志摩三蔵寺観音菩薩)この書き付けは仏舎利石を包んでいた。 4,延宝2年以後納入品を入れなくなったのは ・願主がいなくなったためか、・円空が必要を感じなくなったためか。 |
(C)様式を比較する
「円空研究」32号(円空学会発行・2018年1月)に清水暢夫氏が「円空仏についての諸考察」という論文を書かれた。
清水氏はこの論文で初期像について2つのことを問題提起しておられる。一つは、着衣の特徴について。もう一つは「目」の彫りについてである。
まず着衣についてである。円空仏の寛文3~5年の極初期像から寛文8年までに作像された座像には4つの特徴が見られるという。
①通肩の衣の下部左脇腹または中央部、稀には右肩腹から1~5本の衣の襞状のものが向かって左方向に出ている。
②極初期仏では両肩、または片方の肩上部に別の衣が掛かっている。(他に例がない)
③北海道、東北仏では左右の袖口の衣の端が円形を描いて膝の上に垂れている。
④肘に窪みなどの新しい造像法が見られる。(肘の窪み以外の工夫が私には読み取れない)
次に「目」の彫りについてである。
二本線で「目」を彫るのが寛文8年までで、寛文9年以降は一本線で彫っている。(例外は元禄2年銘の伊吹山観音堂の十一面観音)
結論として、「北海道・東北様式を備えた仏像は寛文8年(1668)までで終わったのではないかと考えている」と述べておられる。
清水さんの主張からすると、この瑞巌寺観音菩薩座像は、寛文8年までの作ということになる。
極初期像・前期初期像の様式上の特徴を考える
私がお目にかかった極初期像・前期初期像と瑞巌寺観音菩薩像を比較してみる。
①津市白山町浜城観音堂大日如来像…極初期像の特徴は、「概して小像が多い」「蓮座左右の出っ張りを持つ」「丁寧な彫りである」「表面が滑らかにされている」。
③愛知県大治町宝昌寺観音菩薩像…底部刻書に「寛文八丁未 園空造」とある。丁と未が読みずらい状態。もともと磐座の上に蓮座があったのをのこぎりで切り落としたそののこぎり面に刻字されている。背中の斜め線、耳朶長大相、ひきしまった表情、丁寧な仕上がりなど初期像の特徴を表している。
③多治見市普賢寺観音菩薩像…背面に金剛界五仏の種字を用いる」のは寛文9年から延宝7,8年まで。「背中に彫られた斜めの線」。そして「大きな耳たぶ」(寛文10年頃からの像に見られる耳朶長大相)などの特徴から寛文10年頃の作か。
①津市白山町浜城観音堂大日如来像 | ②愛知県大治町宝昌寺観音菩薩像 | ③多治見市普賢寺観音菩薩座像 |
瑞巌寺の観音像と比べてみよう。①②③ともまず背中の斜め線が共通している。①②の背中には種字がないが、③普賢寺のものと同じ金剛界五仏種字が見られる。耳朶長大相は②③に見られるが、瑞巌寺では消えている。「目」は①②③瑞巌寺ともに2本線(上瞼、下瞼)で丁寧に彫られている。極初期像である①の目はつり上がっている。②の像は眉がやや上がるが、目が穏やかになり、整った顔立ちになる。③では目がほぼ直線である。瑞巌寺像ではやや垂れ目になり、頬もふっくらしてお顔立ちに余裕を感じる。私は、①(この間に北海道・東北の像が入る)②③そして、瑞巌寺へと変化していったのではないか。
清水氏指摘の向かって左の脇腹から斜め下へ伸びる襞状の布はいずれの像にも確認できる。 肘の窪みというのは右写真の窪みのことであろう。②③瑞巌寺像に共通している。両肩にかけられた別の布は像の背面へ流れており、ショールのようである。 清水氏指摘の衣服の特徴③は上写真の袖口から下へ下がっているもののことと思われるが、指摘通りである。 |
年号 干支 西暦 年令 出来事 典拠 寛永9 壬申 1632 1 美濃国(岐阜県)で出生 群馬県富岡市一ノ宮
貫前神社旧蔵『大般若経』寛文3 癸卯 1663 32 11月6日岐阜県郡上市美並町根村・神明神社の天照皇太神など3体造像 棟札 寛文4 庚辰 1664 33 九月吉日、美並町福野・白山神社の阿弥陀を造像 背銘・棟札 寛文6 丙午 1666 35 1月26日青森県弘前城下を追われ、下北半島を経て北海道松前に渡る 津軽藩御国日記 6月吉日、北海道広尾郡広尾町・禅林寺の観音を造像 背銘 7月28日、同伊達市有珠町・善光寺の観音を像造 背銘 8月11日、同寿都都町・海神社の観音造像 背銘 寛文7 丁未 1667 36 愛知県海部郡大治町・宝昌寺の観音像造 底面刻書 寛文9 己酉 1669 38 10月18日岐阜県雁曽礼・白山神社の白山本地仏三尊を造像 棟札 愛知県名古屋市千種区田代町鉈薬師の諸像を造像 張氏家譜 寛文10 庚戌 1670 39 美並町黒地・神明社の天照皇太神を造像 棟札 3月28日、岐阜県美濃加茂市廿屋・個人蔵の馬頭観音造像 棟札 寛文11 辛亥 1671 40 7月15日、奈良市生駒郡斑鳩町・法隆寺の巡堯春塘から「法相中宗血脈佛子」を受ける 関市池尻・弥勒寺蔵「同血脈」写 関市菅谷・個人蔵の不動明王を造像 厨子天井銘 寛文12 壬子 1672 41 5月下旬、郡上郡白鳥町・長瀞寺阿名院の十一面観音造像 背銘 6月吉日、美並町半在・八坂神社の牛頭天王造像 棟札 寛文13 癸丑 1673 42 この頃、奈良県吉野郡天川村栃尾・観音堂の諸像を造像 本尊観音「像内納入紙片」
清水氏の提起によると、①②③そして瑞巌寺像は寛文8年までの像と言うことになる。
上記年表からも分かるように、寛文7年には②の大治町宝昌寺観音菩薩像が造られており、寛文9年には、岐阜県雁曽礼白山神社本地仏三尊造像、名古屋市鉈薬師の諸像造像が行われている。寛文8年は円空の所在や行跡が空白の1年なのである。
寛文9年白山神社三尊にはそれまでの背面種字とは明らかに違う梵字が書かれていることから、円空がどこかで学んだことが考えられる。また裳懸座が異常に長い像であることから、円空の中で何かが変化したことが考えられること。また鉈薬師の諸像は、それまでの円空仏とは違う面を持っている。まず単独像ではなく群像であること、天部を初めて彫ったこと。中国風あるいはアイヌ風の模様を使っていることなどである。寛文11年に法隆寺で血脈をもらっていることから考えると、修学先は法隆寺である可能性が高い。法隆寺で学び直している円空とその後の円空の境目が寛文8年ということになろうか。
裳懸座の長い像が寛文後期初期像の特徴になるのはこれ以後になる。
寛文前期の極初期像から北海道・東北を挟んでの初期像前期、そして鉈薬師、中観音堂へと繋がる後期初期像の円空仏の変遷。
瑞巌寺観音菩薩像は寛文8年までの作なのか、10年頃の作なのか、判断つきかねる。金剛界五仏種字を使いこなしているところを考えると、修学以後であることは確かなようだ。