円空さんを 訪ねる旅(107) 開山堂 (長野県木曽町三岳) |
御嶽山登山道の一つである黒沢口に開山堂がある(上写真右)。ここに行者さんが持ち込まれた円空仏がある。現在は他の場所で保存されている。開山堂の周辺には相当数の霊神碑が建てられていた。黒沢口は覚明行者によって開かれた最も古い登山道である。
観音像
(19cm)
筋彫り台座の上に蓮座。その上に火焔状の宝髪をつけた観音さまが座しておられる。。 19cmと小さい像で円空がお寺ではなく個人宅に彫り残した観音と思われる。 顔は口の周辺を彫り窪めたあと筋彫りをしており優しいお顔をしておられる。最少の彫りで表現されている。衣文も大変シンプルである。 |
背銘と厨子背面の文字
この像は、厨子に入っておられた。動かないように底面に竹串がさしてあり、それで固定されている。その前に接着剤で固定されていた時期もあったようで、塗料が付着している。
(1)背銘種字
頭部に最勝の「ウ」(ウサギの耳のような形)、胸裏に大きく観音の種字「サ」 、その下右に不動明王の「カンマーン」、左下に「毘沙門天の「ベイシラマンダヤ」、その下の台座中央に妙吉祥の「シリー」が書かれている。
この形式の種字が書かれるのは延宝後期からであり、「飛騨地方に残る小座像は、ほとんどがこの形式で統一されている」とのこと。(「円空研究」(別巻②所載小島梯次論文「円空仏の背面梵字による造像年推定試論」2005より)
赤外線写真で文字が出るようになって浮かび上がるようになった文字である。像そのものが相当黒くて、肉眼では確認できない。
左から右下へ曲線の彫りが3本ある。
(2)厨子背面の書き付け
弥陀如来壱躯本地産土八幡大菩薩也真体也 往古飛州万里来臨勧請之本尊也伝秘像也 |
私は、上記のように読んだ。これを書いた人は、この像を阿弥陀如来だと思っておられるようだ。
「この地の産土神八幡神の本地仏である阿弥陀如来をお祀りした。昔から飛騨にあった真体のこの像にはるばるお越しいただいて、開山堂にお納めした。秘仏(像)であると伝わっている」という意味であろう。
ずいぶん、この円空仏を権威づけるようとしておられるようで、円空さんも面はゆいのではなかろうか。この円空さんを大切に思っておられたことは十分に伝わってくる。先程の背銘種字からも飛騨地方の小座像であることが推量され、円空後期の作である。
覚明行者と円空
この開山堂に祀られている覚明行者(1718~1786)について、全く知らなかったし、今もよく知らない。尾張春日井の生まれで、春日井には銅像や誕生地石碑もあるようだ。木喰さんと同じ年に生まれておられる。吉宗の享保の改革から天明の飢饉まで生きておられたことになる。円空さん没後20数年後にお生まれになったことになる。木曽地方で信者を引き連れ、相当強引に御嶽山登拝を実行されたようだ。結果民衆の御嶽登拝が実現したのであるから御嶽中興の祖と言うことになる。
円空さんとの関係では、もう一つ興味あることをお聞きした。
現在名古屋市西区の寺に覚明の念持仏がある。覚明の死後遺品の中にあった円空作の阿弥陀如来座像(43cm)である。写真で拝見したが、丸四角い大きな顔の像で43cmと大きい。蓮座で定印を結んでおられる。表面を整えた丁寧な仕上げで延宝年間の作ではないかということであった。円空が木曽で活躍した貞享3年(1686)頃の作を、覚明が木曽で手に入れ念持仏にした可能性はその様式から判断して薄いようだ。この像に「円空作阿弥陀如来」という文字と「寛政四歳(1792)」の文字がある。寛政4年は、覚明死後6年後であり、遺品整理の際、この仏像が円空の作だと認識していたことになる。
播隆も覚明も念持仏が円空であったことは、偶然であろうが、興味惹かれることである。覚明は行者で、仏門には所属していないようだ。そういう宗教指導者が江戸時代に現れていたというのも初めて知った。江戸時代幕府の宗教政策で新宗派は認められなかったが、この覚明さんや播隆さんのことを知ると、新しい宗教集団を標榜していたのかなと思う。