円空さんを 訪ねる旅(114) 高田寺 (北名古屋市高田寺) |
高田寺は「こうでんじ)と読む。先に行った平田寺も(へいでんじ)。(たかだでら)とか「ひらたでら)と称するより、音読みのほうが有難そうに聞こえる効果を意識しての読みであろうか。円空との関係で高田寺が注目されるのは、『浄海雑記』(1858年頃、荒子観音寺18世・全精法印の著書)にその修行地として名が挙げられているところにある。また、『金鱗九十九塵」(1830~40年頃、桑山好之著)にも高田寺が出てくる。
その高田寺の円空仏を拝観できる機会が訪れた。2018年6月18日、全国木喰研究会名古屋ツアー2日目のことである。
まず、高田寺の円空さんを紹介する。尾張一の美建築と言われているという旧国宝,現重文本堂内神内の小さな厨子に4体納められていた。
一体ずつ見てみよう。
(1)護法神
(7.6cm)
私が一番興味を持った像がこの像であった。こんな小さい護法神もあるのだなと思った。これはサイズ的には民家によくある円空仏のサイズである。 伏し目がちに見える。左側へ傾いている。手を衣で隠した座像。この後に紹介する観音さんの目の彫り方と違って目を強調した彫りになっている。怖いというより凛々しい表情に見える。 背銘である。 頭部に最勝の「ウ」。 背中と座の背面に 右、不動明王(カーンマーン) 中央、大日如来(アン)あるいは観音(サ)と 護法神(ウン) 左、毘沙門天(ベイシラマンダヤ)だと思うのだがどうだろう。 最勝の「ウ」があるところから延宝7年以降の作であろう。もし高田寺が円空の修行寺だとする。後期の像があるということは、その時期に円空はお世話になった寺を訪問していることになる。 |
(2)観音菩薩
(9.0cm)
これは、民家の円空観音像のように思う。見当違いなことを書いているかも知れないが、自分が修行した寺ならもっと大きな像を残しそうなのになあと思った。住職は以前はもっと多くの円空仏が残されていた旨の発言をしておられたが。 背面の梵字であるが私の写真では、頭部後ろの最勝「ウ」が分からない。肝心の尊名を表す観音の「サ」が分からない。右の不動明王の「カーンマーン」右の毘沙門天「ベイシラマンダヤ」中央下部の吉祥天「シリー」は読み取れる。 二本の斜め線が彫られている。三本の方が多いように思うが二本もあるのだなと思った。 お顔が摩滅ではっきりしない。 |
(3)白山妙理大権現と地蔵菩薩
白山妙理大権現(地蔵菩薩) 16,7cm |
地蔵菩薩 13.0cm |
残念ながら、摩滅のためお顔がよくわからない。同じように頭を丸めた僧形像である。手を衣の下に隠した姿である。足は彫られていない。蓮座がない。
私は背面写真を撮ることが出来なかった。
資料写真によると、左の像の背面に白山大権現の文字が見える。頭部には最勝の「ウ」が見える。地蔵菩薩の種字「カ」も見える。他にも全体にたくさん文字が見えるが私には判別できない。
右の地蔵菩薩の背面梵字は資料でも読めない。天神の文字が右端にあるように思う。
(3)高田寺と円空
『浄海雑記』と『金鱗九十九塵』の記載及び高田寺本尊
最初に書いたのだが、高田寺が円空との関係で注目されるのは、二つの書物に次のような記載がある事による。
まず『浄海雑記』。「稍長スルニ及ビテ、我尾高田精舎ノ某ニ就キテ、退金両部ノ密法稟ケテ、竟無垢清浄捨身ノ行者ト為リ、行基僧ヲ慕ヒ、正ニ人自ラ十二万ノ佛躰ヲ彫刻スル乃大願ヲ発し、矣也」
①高田寺で退蔵界金剛界両部の密法を学び、行者・行基僧になった
②十二万体彫刻するという大願を発し成し遂げた。
という記述が注目される。「浄海雑記」は円空と関わりの深い荒子観音寺の全精が著した書である。円空没後160年余り後の書とはいえ、貴重な記載である。
次に『金鱗九十九塵』。「かの円空は、最初禅門たりしが、…扨(さて)そののちは、円空猶(なお)も仏道を修行せんとて、師匠に暇を乞い、それより天台宗の高田寺へ入れらけるよし。…」とある。
①円空は禅門であった。
②修行のため天台宗の高田寺へ入った。
この著者は桑山好之で、1830年か40年頃の著らしく没後140年余り後の記録である。
二人がわざわざ嘘を書く必要はない。こういう伝承が没後150年後にはあったということであろう。
ただ、この記述を裏付ける他の資料がない。
梅原猛氏はその著「歓喜する円空」で、泰澄と白山信仰との関わり、また高田寺本尊秘仏薬師如来座像と行基とのつながりから、円空が高田寺で修行したことを肯定的に取りあげておられる。興味のある方はぜひお読みになることをお勧めする。
秘仏本尊薬師如来座像は旧国宝で、50年に一度開帳される。高田寺は開基は行基で、養老4年(720)年と伝わる。秘仏もそのころつまり奈良時代初めの行基仏だと伝わっている。高田寺のパンフレットとツアーの資料で見ているのだが、大変魅力的な佛である。井上正氏はこの寺伝を肯定的に評価しておられる。梅原氏は井上氏の論を引用しておられる。
北名古屋市教育委員会の説明板には平安前期を想定しておられるようだ。
この薬師如来像で気づいたことであるが、円空初期像にある右腹から下右へ流れる布がここで見られる。だからこの像を見て円空が初期像を彫っていると強弁できるとは思わないが、あの布は他に例がないとは言えないことは確かである。北名古屋市教育委員会の貞観仏という判断が正しいのではないかと思った。螺髪が大きく神護寺の薬師立像と似ていると思った。あくまでも感想である。一度本物を拝みたい。