円空さんを 訪ねる旅116 間宮山栖了院 (三河田原市福江町) |
2018年9月11日(火)ガンダーラの会主催の三河の円空仏拝観ツアー、最後に訪問させていただいた渥美半島の先端に近い栖了院(せいりょういん)の円空仏二体。この寺の山号『間宮山』は、この二体と大いに関係がある。栖了院は、今川家の家臣であった間宮家の菩提寺であった。昭和3年に阿弥陀座像が、昭和43年に不動明王像が名古屋在住であった間宮家子孫から寄進された。間宮家では二体を念持仏として大切にしてこられたらしい。
間宮家と円空の関係は鉈薬師の張振甫を介してあったようである。
寛文7年(1667)藩祖義直の信任厚く元家老職であった間宮大隅守の所領であった土地を鉈薬師のために張振甫に与えたようだ。大隅守は寛文8年(1678)没したが、その後も鉈薬師を通じて張振甫、間宮家、円空の関係があったと考えられる。
寛文9年(1669)年鉈薬師が建立される。この二つの像も同じ時期に作像され、張振甫から間宮氏に譲られたものではないかと想像される。(『円空研究3』長谷川公茂「尾張・三河特集写真解説」参照)
(1)釈迦如来像
(45.3cm)
背銘がない。しかし如来像で法界定印(大日如来か釈迦如来か)を結ぶ円空像の中に「バク」(釈迦如来の種字)の種字を持つものが多く発見されるようになり、この像も釈迦如来であろうというのようだ。
鉈薬師の諸像が寛文9年(1669)とされている。最近異論も発表されて私は興味を持っている。この像はその観点から見ても大変興味をそそられる像である。まず初期像であることは間違いなさそうだ。耳の硬い表現、鼻を低くし、全体を丸くした独特の横顔の輪郭線。眼は二重線で表現している。衣文の数が多い、肩にショールのような布がかけられていてかなり下まで伸びている。脇を深く彫っている。お腹向かって左から下方へさらに右へ大きな衣の流れを作っている。
円空は後に衣文が異常に長い裳懸け座の像を造るが、この像はその萌芽を感じさせる。蓮座が乱れているこういう蓮座は初めて見た。この像は、北海道から帰ってきてから、鉈薬師の諸像と同じ時期に造られたものか、それとも北海道から帰ってきてからすぐに造られたものか興味ある像である。
(2)不動明王
(59.1cm)
円空は多くの不動明王を彫っている。 この像はその中でかなり異質である。彫刻の中でも板彫りに近いのではなかろうか。厚みが7.1cmというのだから、立てたらすぐ倒れる。現在は台座をつけておられるので倒れないが。 まず、宝剣の持ち方がおかしい。宝剣は上向けにして持つが、わざわざ持ちにくく親指を下にして下げている。こんな不動さんあるのかな?おそらく材の関係で剣が彫れなかったのではないだろうか。仕方なく下向きにしたのではないか。 顔が相当ワイルドだ。目が細くて小さい。動物的な相貌である。頭は立体感に欠ける。模様が機械的に彫ってある。 横から見たら全く何を彫ったのかわからない。何もかもがテキトーな感じを受ける。 しかし何度も見ていると、何となく一生懸命な不動明王なのだろうなと言う親近感が湧いてくるから不思議だ。 これほど角材を使いましたという像も珍しい。 寛文期に彫られた最初の不動明王かもしれないという話であった。 不動三尊形式で彫る場合も、単独で彫る場合も、毘沙門天と一緒に三尊形式で彫られることも多い不動明王だが、これが最初なのかと思うと見入ってしまった。 |