円空さんを訪ねる旅(120) 八剱神社・庚申堂 (岐阜県加茂町白川町上佐見) |
以前ここを尋ねたことがある。その記録は(46)白川町佐見の円空仏にある。
今回も八剱神社の観世音小松原大明神を上佐見公民館で拝ませていただいた。そして下佐見久室の字芝原個人宅にある、厨子に入った観音様を拝んだ。その記録は繰り返さないことにする。今回初めて知ったことを中心に書いておくことにする。
そのあと、近くの寺前の稲荷山中腹にある庚申堂で、青面金剛神像を拝ませていただいた。やはり現地で見せていただくと想像力が高まる。
①観世音小松原大明神
(48.0Cm)
左の縁起は前回分からなかったことである。
①この円空仏は上寺前にある稲荷神社境内の小松原大明神に祭られていた。
②成山村より奉迎寺村大野村とあるところから廃仏毀釈の際(明治4年3月20日)幕府直轄地である稲荷神社境内に安置された。
③それから90年。稲荷神社境内に鎮座しておられた。
④昭和36年円空仏であることが判明し、盗難を憂慮して、八剱神社に合祀された。
⑤近郷の仏像は元禄4年(円空60歳)頃のものであろう。
⑥昭和52年3月白川町文化財の指定を受ける。
明治維新後の苗木藩は徹底的に「廃仏毀釈、神仏分離の徹底」を行った。この像はその波に翻弄された一体である。
この像にはもう一つ謎がある。この像には背銘の中に「観世音小松原大明神」とはっきり書かれている。問題はこの小松原。一般的には地名か、神の名を記す。この近郊に小松原はない。又、他の円空仏の中に類例のない尊名で、謎の大明神である。「観世音」と「小松原大明神」と仏名と神名を並べるのも異例である。頭部に最勝を現す「ウ」首に観音を現す「サ」が書かれており、左右には大日三種真言を書いている。右に一種。左に二種重ねて書いている。」
(2)個人蔵の観音
(8.8cm)
この像が珍しいのは厨子の中に入っておられること。おそらくこの厨子も円空が彫ったのではないかとのことである。屋号が「ホキ」というお宅に伝わってきたそうで、「ホキ」とは歩危と書き、崖や急斜面を行く道のことらしい。 筋目を入れた座の上に蓮華座を配しその上に富士山状の頭部の観音像である。 前回に撮れなかったこの像の背銘の写真が撮れた。 頭部に最勝の「ウ」背に「サ」(観音)そして左右に不動明王と毘沙門天の真言。 円空は民家にこのような小さい像を600体残したそうだがその9割はこのような観音像であったという。 |
「佐見なつか誌60号」にこの像のことが書かれていた。下佐見久室の字芝原は「急峻な山の斜面を切り崩し造った畑の石垣は、小さな石を几帳面に積み上げてある。(中略)芝原の地名は、一軒の屋号ともなった。(故細江金男さん宅)この芝原から細江徹さん宅へ古い里道がある。徹さん宅は通称ホキ(上記)と呼ばれている。中でも、馬崩れと呼ばれる最難所は、実際に馬が負い荷もろとも落ち、命を落としたそうだ。芝原から北上のこの道は佐見街道随一の難所だった。芝原の家はこの難路の手前にある。差し掛かった旅人は夕刻となると、宿屋でもないこの家を一夜の宿としたという。
円空もここで二晩世話になり、厨子入りの観音像とお椀なども作り置いていったという。
昭和の初め頃。芝原の家で婚礼があり、家をかたずけるため多くの物を淵に投げ捨てたそうだ。が、円空の椀と仏像はいつまでも流れなかったそうだ。主は拾って仏壇の床下に置いておいたそうである。しかし婚礼の後、大きな音がするので床下から仏壇に安置したら音が消えたそうである。
(3)庚申堂青面金剛神像
(25.5cm)
青面金剛神は憤怒像である。北海道と沖縄にはないらしい。 この像は、胸に宝珠を持っている。怒髪で顔には目の周り、頬の後ろにも皺のような彫り込みがある。この像横から見るとすごく薄い。立たないようで磐座を付け加えている。 庚申堂には本尊の庚申像があるので、本尊ではないが、円空が彫り残していったものである。 憤怒像であり、前屈みでうつむき加減である。宝珠を捧げ頭髪は怒髪。足に三猿〈見ざる言わざる聞かざる)を彫り磐座に立っている。今もなお庚申講がこのお堂で六軒のお宅で行われているらしい。庚申堂に炉がきってあった。 背面頭部には最上を表す「ウ」。背中から下には、大日三種真言が書かれいる。大日法身真言〈アバンランカンケン〉、大日報身真言〈アビラウンケン〉、大日応身真言〈アラハシャナウ〉の三種である。円空は生涯を通じて大日応身真言を〈アラバシャキャ〉と間違って書き通した。 |