円空さんを訪ねる旅 (126) 不断寺 (伊勢市二見町壮) 韋駄天 |
2019年12月11日(水)ガンダーラの会主催の「伊勢・志摩の円空仏を見る」ツアーに参加してきた。
今回は4ヶ所(不断寺・興玉神社・金剛證寺・上五知薬師堂)を訪問するのですが、2ヶ所(興玉神社・金剛證寺)は円空も足を運んだであろうと思われる場所だが、円空仏は発見されていない場所である。
最初に訪れたのが、この不断寺。二見浦は円空の和歌に登場する場所で、その和歌の解釈を巡って議論のあるところ。
伊勢には円空の寛文の極初期像から延宝初期頃の作が残されてる。伊勢神宮参拝や修行、あるいは法隆寺へ向かう中継地として、志摩地方での造仏や大般若経修復の途路で、一体何度伊勢志摩を訪れたのかは不明だが、一度や二度ではないのではないかと思われる。
(1)不断寺は集落管理の寺
集落の方が数名で対応してくださった。不断寺は曹洞宗の寺院。台風のため被災されて以前お堂があった場所とはいくらか離れた場所に移されている。今は無住で集落管理になっている。昭和50年に円空仏が発見されたという
この集落は「昔は半農半漁だったが、今は農村だ」そうで。港はない。
毎月18日に婦人会がお世話されているそうで、隣村から和尚さんが来られる。
(2)韋駄天
(19.5cm)
韋駄天は戦闘の神。足が速い。禅宗では仏堂を護ると言われ、厨房で祀られる。円空作の韋駄天は27体。初期から晩年まである。愛知県愛西市竜音寺の像と大きさや像容がそっくり。 |
背面に文字があるようなないような。 底部に穴があり、不安定なのでここにさして立てたようである。先程の愛知県愛西市竜音寺の像には大きく4か5の梵字が書かれている。 この像は武神らしく甲冑に身を固め沓を履き磐座に立って合掌している。顔は下ぶくれで、庶民的。四等身。 彫りがかたく寛文後期か延宝2年までの作であろうとのことでした。 講師の小島梯次さんは桑名から舟に乗って伊勢志摩へ来たときに作像されたのではないかとおっしゃっていました。 志摩の片田、立神、上五知の像の前に伊勢に何度か訪れていたことを想像させる像である。 |
(3)二見浦の地名が出てくる円空和歌考
443 ○ うミおきし玉手箱によるならはふたミの浦を明て社見れ 444 □ かた見とてかゝミのはこハもろともにふた見の浦を明てこそ見れ 817 秋 うちおほひふたミの浦ニ暮ニ住空なる月の形移すらん 818 □ うちおほふ君か記念は旅の宿二見浦を明て社見れ 1366 宝珠形 い勢ノ海神のかたみの鏡かやふたみか浦に形移らん |
880「予母の 命に代る 袈裟なれや 法の形ハ 万代へん
427 ○ 眉黛か浮世中の花なれや浦山敷も眼にかゝりつゝ 445 □ あさことに鏡の箱にかけ見えて是はふた世の忘れ形見に 813 □ うちおほうふたよの記念忘すらん闇やミしに迷ぬ 1367□中に○ あけぬれば硯の渕に形見へて覚ハふたよの形成け□ |
私には和歌の意味がとれないので、漢字に直し、音数をそろえてみた。
443 うミおきし(海沖し・産み置きし・海置きし) 玉手(の)箱に よるならば(由るならば) 二見(蓋見)の浦(裏)を 明けて(開けて)こそ見れ(よ)
(歌意)「遥か海の彼方の竜宮城にあったという玉手箱のことを知ろうと思うなら、蓋を見ているだけではなく開けて裏(本当)の意味まで捉える必要があるだろう」
この歌では二見浦は掛詞としての役割をしている。二見浦の夫婦岩はご来光を仰ぎ見る名所。明け方に見てこそということと玉手箱という謎に満ちた箱を開けるということが掛かっている。
444 かた見(形見)とて かゝミのはこハ(鏡の箱は) もろともに(諸共に) ふた見の浦を 明てこそ見れ(よ)
(歌意)「形見として私が持っている鏡とその箱が持っている値打ちは、蓋を見ているだけではなくて開けて、本当の意味(私にとっての価値)まで捉えてほしいものだ。
この二つの和歌は連番になっている。最初玉手箱の歌で、『二見の浦』が『蓋見の裏』に通ずることに気づいた円空は、自身が大切にしてきた『鏡とその箱』あるいは『その思い出』のことを歌にしたのであろう。つまり443はことば遊びであり、444はリアルな心象風景と言えそうだ。
この「鏡の箱」に関係すると思われる和歌がその前後にあるのでそれを見てみよう。
445 あさことに(朝毎に) 鏡の箱に かけ見えて(影見えて) 是はふた世(夜)の 忘れ形見に
問題は誰の「忘れ形見」なのかという点である。これには二つの見方がある。「母の忘れ形見」だと言う見方と、「二見浦で会った女性」という見方である。
これを母を詠んだ歌だとするとどういう解釈になるかというと・・・。
(歌意)「毎朝母の形見の鏡が入っている箱を見ていると母の面影が目に浮かんでくる。これは母のいるあの世と私のいるこの世をつなぐ母の忘れ形見である」。円空はお母さんの鏡の入った箱を毎朝拝み、ずっと持ち歩いていたことになる。円空がこの歌を歌ったと思われるのは四十才前半と思われ、いつまでも母親から離れられない男のイメージになる。この母親説は、円空の出家のいきさつを詠んだと思われる次の歌の延長にこの和歌を読み解くところから発している。
880「予母の 命に代る 袈裟なれや 法の形ハ 万代へん
「わが母の 命に代わる 袈裟なれや 法(のり)の形(みかげ)は 万代(よろずよ)をへん(経ん」
(歌意)「私の母の命に代わる袈裟だ。仏の教えを表すこのしるしは末永く伝えられることであろう」という意味か。
この歌を二見の宿で出会った眉黛の女性のことを歌っていると読むとこうなるのではないか。
(歌意)「今日も昨日も朝毎に、鏡で化粧しているあなたの影が箱に映っている。これは二夜(ふたよ)を共にした私たちの形見にもしたい思い出である」とよほどご執心だった女性への思いを詠んだ歌になる。
突然眉墨の女性が出てきたたが、それはこの歌に登場する。
427 眉黛か 浮世中の 花なれや 浦山敷も 眼にかゝりつゝ
「眉墨か(が) 浮世の中の 花なれや 羨ましきも 目にかかりつつ」
眉墨を引いた女性はこの浮世の華である。そういう色恋沙汰の世界に何の迷いもなく生きることを羨ましく思うことが私にはあるという歌意か。
この浦山敷に出てくる浦山は志摩片田にある浦山ではなかろうか。ふと思いついただけなのだが、眉墨の女性は浦山に関係があるのかも知れない。
この歌は先の二見浦の歌(442・443・445)と同じページにあり、同時期に詠われたと思われ、繋げて読むと眉墨の女性がどういう女性なのかが気にかかる。
次に800番台の三首を見てみよう。
813 うちおほうふたよの記念忘すらん闇やミしに迷ぬ
思い切って私流に読み替えると「うちおおう 二夜の記念 忘られぬ 闇や見れしに 迷いぬるかな」ではなかろうか。
817 秋 うちおほひふたミの浦ニ暮ニ住空なる月の形移すらん
「秋 うちおおい 二見の浦に 暮れに住み 空なる月の 形(みかげ)写さん」
円空は月の景色を写生したようだ。暮れに住むというのは年末ではなく、秋とあるところから中秋の名月の頃(9月末か)円空は二見浦にいたらしい。
818 うちおほふ君か記念は旅の宿二見浦を明て社見れ
うちおおう 君が記念は 旅の宿 二見の浦を 明けてこそ見れ
「うちおほう」を冠する三首である。「うちおおう」というのは包み隠すの意味である。つまりこの三首から考えられるのは、「二夜の記念(しるしか?)「君が記念の旅の宿」のことは、隠しておきたいことであり、僧侶として闇が見えて迷うような出来事であったと告白していることになる。818では「旅の宿」の旅僧として読んでいるが、817では「暮れに住み」と根付いているように詠んでいるのも気になる。
眉墨だけでこの女性が傾城町の女性だと断定はできないが、眉を引く女性は庶民ではなかろう。身分が高いか、廓の女性しか私には思い浮かばない。まして隠しておきたいことであり、円空が闇が見えて迷うような経験として詠んでいるとなると二見浦にあった遊郭の女性ではなかろうか。二見浦には遊郭があったと聞いた。
円空が女犯の罪を犯していたからと言って円空の不名誉だとは言えない。円空を学識優れた聖僧として奉って、品行方正な清僧と崇めるのは自由だが、先入観から離れた方が円空研究は進むと思う。
1366 い勢ノ海神のかたみの鏡かやふたみか浦に形移らん
「伊勢の海 神の形見の 鏡かや 二見浦に 形(みかげ)写らん
「伊勢の海は 天照皇大神の形見の鏡のようだ。二見浦にそのお姿が写っている」
1367 あけぬれば硯の渕に形見へて覚ハふたよの形成け□
「あけぬれば 硯の渕に 形(かげ)見えて 覚えは二世の 形(みかげ)なりけり」
夜が明けて新しい朝を迎えると 硯の渕にそのお姿が見えてくる。私の記憶をたどれば、そのお姿はあの世とこの世お姿である」
この二見浦の和歌は、眉墨の女性の影はない。天照皇太神に対する崇拝の念が表されている。