円空さんを訪ねる旅 (130) 鉈薬師その1 阿弥陀・観音 僧形像 紅葉山薬師堂 (名古屋市千種区田代町) |
2019年12月21日、やっと鉈薬師を訪ねることが出来た。鉈薬師へは名古屋地下鉄東山線「覚王山」で下車し、日泰寺へ向かい、さらに四観音堂道にある案内を頼りに歩くと辿り着く。鉈薬師は住持が在住している寺ではなく、日泰寺の市が開かれる毎月21日の弘法さんの日特別に開扉されている。 私が円空仏に興味を持ち始めた頃インターネットで調べたらいくつか写真があった。 ああ、ここは撮影が自由に出来るのだなと思ったのだが、現在は撮影禁止である。お堂を守っておられる方がおられてお世話しておられる。拝観料などは徴収しおられない。 阿弥陀像、観音像、僧形像、日光月光像、十二神将像の合計17体の円空初期の像が安置されている。本尊は鎌倉期の薬師如来像で、これは円空の手になるものではない。 |
(1)鉈薬師の創建
今、円空作を疑う声は聞こえてこないが、平成最初の頃までは、名古屋市教育委員会も「円空作と伝えられる」と説明板に書いていたらしく、円空作と言い切るには躊躇があったようだ。(*『鉈薬師の円空仏』(小島梯次・行動と文化研究会18号・1991年5月)に詳しい)
鉈薬師の創建は寛文9年(1669・・・円空37歳)で、創建者は1621年明国から日本に亡命した張振甫である。この人の来歴についても諸説あるようだ。明王朝のラストエンペラーという説を紹介しておられるのは、冨野治彦氏。『円空を旅する』・産経新聞ニュースサービス・2005年)。振甫食餌医説をとっておられるのは、長谷川公茂氏。(『円空研究』19・2000年)。
長谷川氏の説によると、尾張二代目藩主光友の信頼を得た振甫は、明朝復興のために命を落とした人々のための追善供養のためにお堂を建て、供養仏を祀り祈ろうとしたのではないかと言う。当時江戸幕府は寺院整理に取りかっかっていたので、祠堂建築は許されず、古祠堂再建を再建したが、実質新築であったとも書いておられる。
先の小島梯次氏は、江戸時代に記された「張氏家譜」他6つの資料から分析しておられ、原資料を読まれる方にお勧めである。、
(2)円空と張振甫
後にもふれることになると思うが、十二神将『午像」頭部に「改印」がある。鉈薬師の諸像に官材が用いられていることを示している。これは「那古野府城志」にある「瑞龍公(光友)・・・再建御材木をも賜り」という記述を裏付けている。しかし巷間言われるように「名古屋城建築余材で造られた」とは言えない。私がお堂の中で拝見してたら、ツアー客に説明しておられたガイドさんが「名古屋城と同じ材木で」と話しておられたのだが、名古屋城建築と鉈薬師建築の間には時間がある。
光友は張振甫をいたく気に入り「藩医」取り立てを打診したが「廣ク療治」できないからと固持している。円空は伊吹山修験僧として励み、薬草の知識もあったと思われ、張振甫とのつながりは「薬学」「医学」なのかもしれない。円空と張振甫とにどういう出会いがあったのかは謎である。
(3)薬師三尊の謎
鉈薬師であるから当然本尊は「薬師如来」であり日光月光菩薩が脇侍を務め、十二神将が周囲を護る・・・というのが常識だが、ここでは、少し事情が異なる。
まず、本尊が円空仏ではなく鎌倉時代作と思われる薬師如来であり、脇侍が何と阿弥陀如来と観音菩薩である。日光月光菩薩も彫られていて、並びは左から阿弥陀如来、月光菩薩、薬師如来、日光菩薩、観音という順になる。
正面に薬師如来、左右に阿弥陀如来と観音菩薩。この3体は大きさも合っており、三尊形式と言える。しかしその間にある日光月光像は20cm程度像高が低く影が薄い。
薬師如来の脇侍を阿弥陀、観音にするのは、円空の場合ここだけではない。つい最近円空大賞展で高山市丹生川町板殿薬師堂の薬師三尊を見てきた。
鉈薬師の諸像は円空が北海道から東海地方へ戻ってきた初期像にあたる。飛騨の像は円空後期。こういう三尊形式を大事にする必然性が円空にはあったのだろうが、私には想像が付かない。
日光月光像は、角材で彫られており、十二神将より大きい。
阿弥陀、観音はまず材が丸太である。原木直径80cmで荒子観音寺の仁王像と同じぐらいの太さだそうだ。大人4,5人で持ち上げられなかったらしい。『鉈薬師の円空仏』(小島梯次・行動と文化研究会18号・1991年5月)
阿弥陀如来 | 月光菩薩・日光菩薩 | 観音菩薩 |
164.5×84.5×81.5 | 月光:149.5×37×16.5 21kg | 163.5×84.5×81.5 |
重量測定出来ず | 日光:145.4×40.9×19.2 24.5kg | 重量測定できず |
まず、阿弥陀、観音であるが、表面が滑らかに仕上げられていて、津市真教寺閻魔堂十一面観音を思い出した。顔が大きくバランスが悪い。観音は手に蓮の花を持っている。親指と人差し指は重ねていない。阿弥陀は親指と人差し指を重ねている。衣文は規則的で同心円というか同心楕円(こんな言葉あるかな)。袖は左右に同じように流れている。材にひび割れが出ている。この台座は上が蓮座で下は半花。円空は他にこういう台座の仏像を他には残しておらす珍しいものだそうだ。目は二本線で表されている。全体的に表現が硬く緊張感が漂う。
日光、月光二体には体全体に巻き雲文が施されている。胸元に日輪、月輪を持ち違いを強調している。この巻き雲文様は細かく丁寧でおもしろい。巻き雲模様はこの後に紹介する僧形像や十二神将にも見られる。衣服を巻き雲で飾るのは北海道でのアイヌ文化との交流の結果ではないかという説を読んだことがある。巻き雲模様は関東地方の仏にも見られ、この時期だけのものではない。まだ、合理的な説明にはお目にかかっていない。目は一本線で彫られている。阿弥陀、観音とは台座も違う。お顔は微笑んでおられるように見える。
阿弥陀と日光菩薩の頭部背面に刳貫・埋木があるらしい。円空が埋木をするのは寛文9年から延宝2年頃までの5年間のことである。
本尊薬師如来も実は彫っていて、名古屋市の善昌寺のものがそれに当たるという説があり、故梅原猛氏はその著「歓喜する円空」では断じておられる。
日光、月光と大きさが合うこと、巻き雲模様が施してあることなどがその理由である。ただ、体を滑らかに仕上げていないことや衣文が同心ではないことは違いとして残る。 その当否は別にして、現在残っている薬師如来の脇侍として阿弥陀、観音の形式を選び伝えてきている理由がやはりあるのであろう。張振甫にあったのか、円空にあったのか。新築でお堂が建てられたのでなく、古祠堂を再建したということを強調するには、前の祠堂の本尊を用いる必要があったであろう。円空が彫った日光、月光では20cmばかり足りない。すでに彫ってあった阿弥陀、観音が用いられたのではないか。本尊が二体あるのはまずいので、善昌寺に遷座していただき、大きさが合う強力な脇侍阿弥陀、観音を正式に脇侍に据え、日光月光は遠慮がちにその間に据えられたと私は想像したが、あくまで想像である。
(4)僧形像・・・最初の異形の像
(83cm)
この像はまず名前が分からない。前屈しているのは何故なのかも不明。両手の間から何か見えている物は何だろう。いくつかの疑問点がある。 鉈薬師の諸像の中で一番小さい像である。1mを越えないのはこれだけである。顔と頭は滑らかに整えられている。目は二本の刻線。顔の造作はわずかな凹凸で表現されている。 上半身は衣文であるが下半身は巻き雲渦巻き模様であり、なかなかオシャレである。背中の方まで衣文が施されている。 こういう膝を曲げ前屈した像は岐阜県羽島市中観音堂にある金剛童子像と同じである。その像は怒髪で手がどうなっていたか思い出せないのだが、姿勢はほぼ同じでなかなか迫力のある顔をしていた。資料館の方にあった。 他に例があるのか知らないのだが、祈りの姿勢であることは間違いないだろう。手と手の間から何か四角いものが見える。 先人の方達はこの像をどう名付けられ、持ち物をどう解釈されたかというと・・・。 ①善財童子(後藤利光)・・・杵 ②聖徳太子(棚橋一晃)・・・鉈 ③張振甫(五来重)・・・圭刀(藥匙) 小島梯次円空学会理事長は聖徳太子二歳の時の「南無仏像」説である。南無仏は僧形立像で上半身裸形。南無仏とすると手の間から見えているのは「仏舎利」ということになる。 小島氏はさらにこの像は円空が如来像菩薩像の仏像や神像から恐らく初めて彫った異形の像である。多種多形態のはじまりだと説いておられる。 |